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東南アジアの歴史
History of South East of Asia



第二次世界大戦博物館所蔵
カンチャナブリ

 

東南アジア史1.大陸部  2.島嶼部 山川出版社

昭南島時代 インパール作戦 日本資本主義発達史講座 戦場に架ける橋 サマーセット・モーム

ベトナム戦争 三島由紀夫 キリングフィールド タイの歴史 ジム・トンプソン パタニ王国 ラオスの歴史

□関連コンテンツ□

アジア本 ブックレビュー 参考図書




昭南島時代

◇シンガポール陥落◇

昭南島と言っても分からない人も多いかもしれない。 1942年2月15日、英領であるシンガポールを日本軍が攻略し、英軍を無条件降伏させ、シンガポールを昭南島と改称したのだ。

◇日米開戦◇

1941年12月8日、山下奉文中将の第25軍がタイ南部とマレー半島に上陸し、マレー半島を南下した。 コタバルに上陸した侘美支隊は東部海岸沿いに南下した。 タイに進駐していた西村琢磨中将指揮の近衛師団部隊も南進してシンガポール攻略に参加。

◇怒涛の進撃◇

英軍は少なくても3ヶ月は侵攻を阻止できるとした「ジットラ線」は日本軍の進撃に軽々と突破された。 日本軍は歩兵に自転車を使わせた「銀輪部隊」を先頭に、急進撃を続けた。

◇上陸作戦◇

1942年1月31日、各隊はジョホール水道に到着、2月9日、シンガポール上陸作戦を三方向から敢行した。 1週間の激闘の末、2月15日、山下軍司令官と英軍司令官パーシバルとの会談で、英軍は無条件降伏した。 その日、大本営政府連絡会議はシンガポールを「昭南島」と改称することを決定した。

◇シンガポール陥落◇

シンガポールの陥落は、日本国民を熱狂させた。 天皇は、「東亜における英国の根拠を覆滅」した壮挙を賞賛する勅語を発した。

◇余談◇

この作戦に同行した従軍記者が、シンガポールでアメリカ映画「風と共に去りぬ」を見て、日本の敗戦を確信したという。 「こんな映画を作る国には勝てない」と・・・。

◇参考文献◇ 日本の歴史 25太平洋戦争 林 茂 中央公論、昭和史事典 講談社。


インパール作戦

ノルマンディー上陸作戦が、「史上最大の作戦」とすれば、インパール作戦は、「史上最低の作戦」と言えるかもしれない。 この作戦において、戦死者三万、戦傷病四万二千、残存兵員は戦闘開始前の8〜9%という悲惨な結果をもたらした。 作戦には第三十一(烈・佐藤幸徳中将)、第十五(祭・山内正文中将)、第三十三(弓・柳田元三中将)の三個師団が当てられた。 この作戦で興味深いのは、第十五軍の上記三師団長が全員解任されたこと。 いかに前線部隊がこの作戦に対して、懐疑的であったかがうかがえることだ。 山内師団長は電文で、「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と打電した。 柳田師団長は、緒戦において作戦中止を主張し、前進をしぶった。 第十五軍の牟田口司令官は、山内、柳田両師団長解任を上申し、河辺ビルマ方面軍司令官は解任を認めた。 前線部隊の苦境を直視しない東条参謀総長は、解任を認めるとともに作戦再興を下命した。 第三十一師団は、コヒマを占領するも、弾薬、食料の補給のないままの戦闘を強いられた。 このままでは全滅するとの思いから独断で退却をした。 この為に、佐藤師団長は罷免された。 作戦中に全師団長が解任されたのは、日本陸軍史上でもかつてない。 それほど特殊であることに違いない。 制空権が奪われたなかでの無謀な作戦。 現実を直視しない陸軍上層部。 そして、昭和二十年五月、ラングーン(現在ヤンゴン)は陥落する。 ビルマ方面軍は総退却するなか、作戦開始から実に約二十万もの貴重な命を失った。 この歴史から我々はなにを学ぶべきか。

◇参考文献◇ 日本の歴史 25太平洋戦争 林 茂 中央公論、昭和史事典 講談社。

◇参考になるHP◇

  • 翔んだ青春 父が体験したインパール作戦

  • インパール作戦 父が語る戦争体験記


  • 日本資本主義発達史講座



    昭和7年発行の「日本資本主義発達史講座」岩波書店の第1回配本本。全7巻。各回分冊。

    • 幕末に於ける世界情勢及び外交事情 服部之總

    • 明治維新の変革に伴う新しい階級分化と社会的政治的運動 平野義太郎

    • 工業に於ける資本主義の端初的諸形態 マニファクチュア・家内工業 山田盛太郎

    • 労働者の状態及び労働者運動史(上) 小川信一

    • 財政史 風早八十二

    • 最近における経済情勢と経済恐慌(上)

    ちなみに、この第1回と第4回(欠本あり)を所有しています。神田の古書店で買いました。 第4回には、羽仁五郎が執筆しています。 私が大学で「歴史」を学んだのは「服部之總」の弟子の「松尾章一」氏なので、私はその孫弟子にあたります。 日本歴史学では、いわゆる「講座派」と呼ばれています。


    「戦場に架ける橋」

    「戦場に架ける橋」の舞台になったのは、カンチャナブリーのクウェー(クワイ)川橋を指します。 1957年にデビッド・リーン監督、名プロデューサー、サム・スピーゲルにより製作されました。 アカデミー賞を7部門受賞した名作です。 早川雪舟が出演したことでも有名ですね。 さて、この作品ですが、娯楽作品としては楽しめます。 しかし、史実通りかというと残念ながらかなり違うようです。 第一に、映画では捕虜の英国人からアドバイスを受けて橋が完成したように描いています。 当時の日本の架橋の技術は低かったのでしょうか。 実際には日本の土木、架橋の技術は高く、アドバイスは必要なかったのです。 製作国が英国なので、このような演出がなされたと推測できます。 第二に、映画では爆薬による橋の爆破という設定ですが、これも事実とは異なります。 実際には、連合軍の空爆による爆破というのが真相です。 この映画はあくまで「娯楽用の戦争映画」であり、史実に基ずいた記録ではないということです。


    サマーセット・モーム



    英国人の文豪。1874年パリ生まれ、1965年ニースで没 亨年91歳。 本をあまり読まない人でも、「月と6ペンス」「人間の絆」「雨」などの作品を学校の教科書で読んだのではないでしょうか。 シンガポールのラッフルズホテルには、「モームの部屋」があります。 バンコクのオリエンタルホテルもモームの定宿でした。 本国の批評家は厳しい評価をしていますが、世界各国でモームの作品が読まれているのは事実。 英国、フランス、アメリカ、ロシア、日本、ポーランド、トルコ、スペイン、チェコスロバキアなどでも多く読まれています。 そういう世界的な文豪のモームがはじめて訪問したバンコクの印象はどういうものだったのでしょう。 1923年に、モームはオリエンタルホテルに泊まります。 その印象は、モームの旅行記、「The Gentleman in the Parlour」に記されています。 部屋はうす暗い、食事は吐き気をもよおす、たえまない騒音でいらだったなど不快感を表しています。 これはビルマで感染したマラリアの影響が強いようです。 その後何度も宿泊しているので、モームはオリエンタルが気にいっていたと推測できます。

    ◇参考: アジア幻想―モームを旅する  村松友視 管洋志 講談社


    ベトナム戦争とタイ

    ベトナム戦争にはタイは深く関わっていた。 1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃の開始、同年7月のアメリカ軍の南ベトナムへの大量派兵は、タイの軍部支配をより強固なものした。 当時の政権は、タノーム首相(国防大臣兼務)とプラパート副首相(内務大臣兼務)という軍事色の強い政権である。 タイとアメリカは1963年に軍事協力協定を結ぶ。 この協定でタイ政府は国内の空港をアメリカ軍が基地として利用することを認めた。 66年4月には、ウタパオ基地からB52爆撃機が、ハノイに向けて飛び立った。 当時、タイ政府はアメリカ軍機による北爆を目的としたタイの基地からの出撃を否定していた。 しかし、ある報告によると北爆のうちの80%はタイの基地からの出撃とある。 また、タイ政府は基地の提供だけではなく、一万人以上の兵を南ベトナムに派兵している。 アメリカへの軍事協力への見返りは、経済援助と軍事援助であった。また、約5万人の在タイ米軍による特需であった。 基地がある町が活気つくのはその頃であった。 バンコクのパッポンが駐留米兵の歓楽街として賑わうのもベトナム特需といえるだろう。

    ◇参考文献◇ 東南アジア史 大陸部 山川出版


    □ベトナムジッポー□


    1974年製のベトナムジッポー

    ベトナム戦争当時アメリカ兵が使用したジッポーを指す。 ジッポーのコレクターは多いが、この「べトナムジッポー」はビンテージ物として人気が高い。 ただ、ベトナムで売られている物のほとんどは偽物だといわれています。 上記のジッポーはベトナムで仕入れをした雑貨バイヤーから購入しました。 「ジッポー完全読本」発行ワールドフォトプレスで年式の見分け方が分かります。


    三島由紀夫とタイ

     

    三島由紀夫のライフワークといえる「豊饒の海」の第三巻は「暁の寺」である。 この「暁の寺」とはバンコクの「暁の寺」、「ワットアルン」を指す。 三島は1967年秋、インドを旅行し、その帰路にタイに寄った。 「暁の寺」の取材が目的であった。バンコクには10日間滞在したらしい。 タイ以外にもビエンチャン、プノンペン、アンコールワットにも立ち寄った。 帰国後、「楯の会」を結成し「豊饒の海」全四巻を完成し、1970年11月25日、市谷の自衛隊駐屯地にて自決をしたのである。 そういう意味では、三島にとって「最後の休日」といえるものであった。 タイの印象は三島にとってどのようなものだったのであろう。 「暁の寺」では、主人公本多をして、「すべての芸術は夕焼ですね」と語らせている。 たしかに、チャオプラヤ川越しに見える夕焼の「暁の寺」は素晴らしい。 三島は第三巻「暁の寺」を脱稿した後に、このように語った。「暁の寺の完成によって、それまで浮遊していたニ種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。」この三島の告白は、その後の行動を鑑みれば大きな意味を持つといえるだろう。 インドの「バラナシでの体験」と「暁の寺」は、三島には「涅槃」の世界に映ったのであろうか。

    ◇参考 暁の寺 (新潮文庫―豊饒の海)  第三巻 三島由紀夫、
    メコンのほとりで―裏面史に生きた人々 (中公新書)  名越健郎


    キリングフィールド

    映画「キリングフィールド」1984英-米 ピュリッアー賞を受賞したシドニー・シャンバーグの実話を映画化した。 アカデミー助演賞を受賞したハイン・S・ニョールがいい味を出している。 この映画はカンボジアが舞台。 ポルポト率いるクメール・ルージュが支配する時代を描いた。 恐怖が充分伝わってくる傑作といえる。 アジアフリーク必見の映画だ。 彼らの支配する4年間に100万〜300万人の命が奪われた。 資料により数字はばらばら。 なぜ、これだけの殺戮が行われたのか。 未だに解明されていない。 ポルポトは既に98年に死亡。 フンセン政権は旧ポルポト派の裁判を行うとは言うものの進展はあまり見られない。 国際機関、NGOが中心になり調査を進めているが、証言がなかなか得られない難しさがある。 不利な証言をしようものなら抹殺されるからだ。 クメール・ルージュの影は払拭出来てはいない。 そして、クメールルージュは武装解除したはずだが、実際には完全に放棄していない。 あるクメールルージュの幹部は、もし逮捕されたら武力抵抗すると宣言しているくらいだ。 今後の動向を国際社会は注目している。 この時代にタイへの大量難民が流出した事が国際問題に発展したのは言うまでもない。




    タイの歴史 Thai history

    タイ国は立憲民主制を採用し、国王は国家の象徴です。 しかし、日本のそれとはかなり違います。大事な場面では国王が国の方向を左右します。 クーデターの際には国王が仲裁に入るのもよく知られたことです。


    □スコータイ王朝□

    ◇ラームカムヘン大王◇

    タイが国家として歴史の舞台に登場するのは13世紀のスコータイ王朝からとされている。 スコータイ王朝第3代国王、ラームカムヘン大王の時代に強力な軍事力と政治力により 強大な国家を建設した。その範囲は、東はビエンチャン、西はぺグー、北はルアンパバン、南はナコン・シー・タンマラートという広範囲に及んだ。 これは現在のタイの国土をも上回るものと言える。 大王は、タイ文字を、クメール文字から学び、生み出したとされる。また、上座部仏教を奨励し普及に努めた。 陶磁器の製造も中国から学び、持ちこんだ、など文化面での貢献も大きい。 ラームカムヘン大王は現在でも、名君として誉れが高いのも理解できよう。 しかし、次の王ルータイ王の時代には次第に凋落していく。

    ◇参考:地球の歩き方バンコク93〜94ダイタモンド社、東南アジアを知る事典 平凡社、東南アジア史大陸部 山川出版


    アユタヤー王朝

    ◇日本人町と山田長政◇

    16〜17世紀、国際交流に積極的なアユタヤー王朝は、中国や近隣諸国以外に、フランス、イギリス、オランダ、ポルトガルなどヨーロッパ諸国とも交易も結び商人が往来した。 王は外国人に住居を与え、町の造成を許可した。 こうした流れの中で、日本人町は形成された。 1610〜30年の最盛期には1500人以上の日本人が住んでいたといわれる。 山田長政は、沼津の町人から日本人町の頭領にまで上りつめた。 山田は国王ソンタムの信任を得、傭兵隊長になった。 官位オヤ・セナピモクをも授かる信任ぶりであった。 その後、六昆(リゴール)の地方長官にまで上りつめた。 しかし、王位継承の争いに巻き込まれ毒殺されたと伝えられる。
    余談:山田長政は日本では有名であるが、タイではほとんど知られていない。

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    山田長政 2008年 2月 1日のブログより転載。

    dacoの最新号233号にタイ映画「YAMADA 〜The Samurai of Ayothaya〜」の紹介記事。 日本人には有名な「山田長政」。が、ここタイでは全く無名。 それもそのはず、タイの歴史書や教科書には「山田長政」は登場しない。 12月にクランクイン、来春公開予定とか。はてさてどんな内容なのか楽しみです。 主演は日本人俳優の大関正義(おおぜきせいぎ)。同姓同名の俳優大関正義(おおぜきまさよし)さんとは別人です。 今から約20年前、当時京大教授の矢野暢氏毎日新聞に投稿した「山田長政は実在したか」は当時大変な波紋を呼びました。私自身も強烈な印象があります。 矢野氏はセクハラで教職を追われたのも強く印象に残っています。そのためかどうかは定かではありませんが、「非実在説」は影が薄いようです。 私自身は矢野氏の説にかなり共感できます。 山田長政自体の存在は否定しませんが、アユタヤ朝の傭兵隊長となり地方の長官になったというあたりはどうも信用できません。 昨年は日泰修好120周年。これを機会に「山田長政」を再度検証するべきではないでしょうか。


    タークシン大王

    □トンブリー王朝□

    スコータイ王朝後、アユタヤ王朝が400年以上存続する。 しかし、1767年、ビルマ軍の侵攻を受けてアユタヤ王朝が崩壊する。 アユタヤ陥落直前に軍団を東南部のラヨーンまで率いて建国したのはタークシン将軍であった。 将軍は兵力を再統合してアユタヤ奪還を目指した。 アユタヤの都を急襲してアユタヤを奪還した。 その後、たびたびビルマ軍の攻撃を受けたが 撃退をしている。戦闘により荒廃した都を、約80キロ南方のトンブリーに移し、みずからの王朝を開いて王位についた。 晩年は精神錯乱とのことで幽閉され処刑された。 これはタークシン王の配下のチャオプラヤー・チャクリー将軍が正当化した可能性があり信憑性は疑わしい。 タークシン大王の銅像はトンブリー地区のウォンウィエン・ヤイにある。 一代限りの王であったが、祖国を救った勇猛な武将として語り継がれている。 最近、映画化された「Bang Rachan」はアユタヤ時代のビルマとの攻防を描いた作品。 国軍の兵士の士気を高揚させるために、兵士に見させたとの噂が出ている。

    ◇参考:地球の歩き方バンコク93〜94ダイタモンド社、東南アジアを知る事典 平凡社、東南アジア史大陸部 山川出版




    □スーパーヒーロー、チュラロンコーン大王

    ◇チャクリー王朝◇
    ◇スーパーヒーローの誕生◇



    タイ人に最も慕われている王といえばチュラロンコーン大王(ラマ五世)といえよう。 司法、行政改革を断行して近代化を成し遂げた功労者として高い評価を得ている。 1868年に弱冠15歳で即位された。国王が成人するまでは摂政が置かれた。 摂政には、大臣のチャオプラヤー・シースリヤウォンが勤めた。 王位継承時の王は、実権のない飾り人形のような存在であったと、王自身が語られている。 ◇行政改革の断行◇ 成人に達した王は、一人で国政を考えるより多数が知恵を出した方が良いと国王に助言する機関として「国政参議会」、相談役として「枢密院」を法制化した。 教育の普及、電信電話業務、交通網の整備、鉄道の敷設などを実行し、近代化を図った。 ◇奴隷制の廃止◇ また、従来あった奴隷制度を廃止したことでも庶民から支持された。 奴隷制には既得権益者からの強い反対にあい、廃止までに実に30年も時間を要したのだ。 ◇精力家◇ 大王は五人の王妃と160人に及ぶ妾をもつまさに精力的な王であった。 これは歴代の王でも跳び抜けた数字といえる。 王宮だけでは間に合わず、新たにドゥシット宮殿を建てる有様であった。

    ◇参考:地球の歩き方バンコク93〜94ダイタモンド社、東南アジアを知る事典 平凡社、東南アジア史大陸部 山川出版


    □悲劇のラマ8世□

    ネパールでの国王射殺事件を聞いて、ラマ8世の事件を再び想起する。 ラマ7世が退位後、チャクリー王朝を継いだのは、ラマ7世の異母兄弟のマヒドン王子の子息、アナンタ王子であった。 王子はラマ8世として1935年3月に即位されたが、当時10歳であったため、学業を続けるためスイスに留まった。 その間は摂政が管理をした。 1946年6月学業を終えた王はタイに帰国した。 同年6月9日、王は王宮のボロマビマン宮殿内で銃弾により謎の死を遂げたのである。公式発表は「銃器取り扱いの事故」とされた。 時の内閣は事故の責任をとり総辞職。王室警護の数人が事故にかかわりがあったとして処刑。 しかし、背後関係は不明で、今も真相は不明である。

    参考:地球の歩き方 バンコク93〜94 ダイヤモンド社


    ジム・トンプソン

    ◇シルクとの出会い◇

    タイシルクのジム・トンプソンといえばご存知でしょう。しかし、彼の生涯は実に波乱に富んでいます。 1906年のアメリカデラウエア州生まれ。1945年8月の終戦間際に、OSS(戦略作戦局)の一員としてバンコクに来たのがタイとの出会いでした。 OSSのバンコク支局長として、外交業務を代行していました。 彼は野心家で、オリエンタルホテルの買収を計画していました。しかし、買収は失敗に終わります。 そして、タイシルクに目をつけたのです。当時は、シルクは家内工業で行われていました。

    ◇アメリカでブレイク◇

    タイシルクの美しさに惹かれた彼は、アメリカにタイシルクを紹介し普及活動に勤めました。 ファッション雑誌「ヴォーグ」に取り上げられてブレークしました。 1948年には「タイシルク商会」を設立。染色、デザインに欧米の技術を導入する。 その後、ミュージカル「王様と私」の衣装にも採用されて、人気は不動のものとなりました。

    ◇悲劇のシルク王◇

    事業家として大成功したのですが、1967年に悲劇が訪れます。 復活祭を祝いに友人の別荘がある「キャメロン・ハイランド」を訪問します。 彼は友人3人とピクニックに行きますが、彼ひとりが戻らなかったのです。 彼の消息は現在に至っても不明なのです。誘拐、狂言、自殺、他殺、陰謀説など色々なうわさがありますが、真相はなぞのままです。 彼の失踪は、小説にもなりました。 松本清張の「熱い絹上下」講談社、「失踪」ウイリアム・ウォレン 第三書房。

    ◇参考:地球の歩き方バンコク93〜94ダイタモンド社


    パタニ王国

    14世紀から19世紀にかけてマレー半島に存在したマレー系王朝。現在のタイ南部のパッタニー県を中心に展開した。 領土はタイのパッタニー県、ヤラー県、ナラティワート県、ソンクラー県、サトゥーン県とマレーシア北部の州を領土にしていた。 イスラム教を国教としマレー語を国語とするイスラム王国であった。 タイのスコータイ王朝、アユタヤ王朝には臣下の礼を取っていたが、アユタヤ王朝がビルマ軍に滅ぼされて自立を果たした。 18世紀のタイのラタナコーシン朝の時代に再びタイの支配下に入り、1902年にタイ王国に併合された。日韓併合が1910年だから、時はまさに植民地支配の弱肉強食の時代であった。 このような複雑な時代背景の下、現在でもタイ最南部3県とソンクラー県ではタイからの独立・分離を目指す運動が続いている。 新聞報道などで教師の殺害が目立つが、イスラム教を信じ、マレー語を話す地元民にはタイ語を教え、仏教を信仰するタイ人教師は侵略者にしか映らないのかもしれない。 大手マスコミによる報道は、イスラム過激派によるテロとしてるのがほとんど全て。 だが、分離・独立を目指す真摯な独立運動ならばまさに彼らには「聖戦=ジハード」なのかもしれない。 テロを擁護する訳ではないが、その時代背景は決して忘れるべきではないだろう。 もしも、戦争に敗れた日本で英語が国語になり、キリスト教を信仰する者が教師ならどうであろう。 いかに苦痛か容易に想像できるのではないか。


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