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Mayの香港留学報告

No.1 No,2 No,3 No.4 No.5 No.6 No7 No.8 No.9 No,10

N0,11 No.12 No.13 No.14 No.15 No.16 No.17 No.18 No.19 No.20

No.21 No.22 NO.23 No,24


◇香港迷のMayさんのHP◇

洋紫荊倶楽部


No,1 しょうもない決心

 初めて香港に行ったのは、1995年2月のこと。125,000円、3泊4日、全食事付き、マカオ観光、強制ショッピングツアー(!)という、今の私には到底考えられない、安かろう悪かろうツアーであった。もう2度と使わないよN旅行。2回目に行ったのは、1996年7月。某有名旅行会社の165,000円、3泊4日、一部観光あり、非強制ショッピングツアー(♪)という、バカ高いが自由度がアップしたツアーであった。この時のガイドが日本語ペラペラで、実にコマメに働く奴だった。 彼は9ヶ月間、日本に留学して日本語をマスターしたそうだ。やはり高いお金を出した甲斐あって、対応がとても良いツアーだった。地獄の沙汰も銭次第とはこのことか?

 気が付いたのだが、香港人は実に良く日本語を話すのだ。言語として身に付いてい るのではなく、一種の教養として
「ちょっとくらい日本語を知ってないと遅れてるわ。」と言う感覚だ。
こちらとしては、やはり日本語を話してくれるとうれしいものである。この旅行中に、
「何で香港人がこんなに日本語を話せるのに、日本人は広東語を離せないんだろう?」ふと疑問が湧いた。
そして、
「もし日本人が広東語を香港で話したら香港で受けるんじゃないか?よし、広東語を習ってみよう!」何でそんな単純で子供じみた考え方をしたのかは、今となっては解らないが・・・・・・。

 なるべくしてなった、運命なのかも知れない。 帰国してから、広東語教室探しが始まった。


No,2 広東語事始め

 広東語教室探しが始まった。まず「ケイ×とマナ×」などの情報誌に目を通す。  た、高い。何か他の教室はないのか?今度は新聞の広告に目を通す。  あ、あった!某国営放送が経営している文化センターに「広東語講座」があった。  早速申し込みの電話を掛ける。定員ギリギリで開講するそうだ。やれやれ。全くどうしてこんなに講座が少ないのか? きっと需要が少ないからなんだろうな。  毎週水曜日の夜に開かれる講座。水曜日は必ず休まねばならない。 職場でイヤミを言われつつも、しぶとく主張すると、意外とあっさりOK。 しかし広東語を習うなんて言えないな〜人と変わった事をすると、潰される世界なんだな、私の職場は。

 1996年10月、某文化センター広東語講座に通いだした。  クラスは私を含めて4人。 イギリス留学時にできた彼が香港人だったOさん、金城武ファンのTさん、香港芸能通のKさん、私。 皆香港に対してそれなりに知識があるのだが、私にはさっぱりなかった。 香港人の先生曰く
「日本人は香港の芸能人が好きだってところから、広東語を勉強しようと思ってくるみたいなんだけど、あなたとあなた(私とOさんを指す)は違うみたいね。」
ああそうなの?別にいいじゃないの、言葉を覚えたいだけなのよ、私らは。 ずいぶんはっきりとモノを言うのだな、香港人は。

 発音からまずは勉強。 声調が北京語には4つあるのだが、広東語には何と9つあって、古代中国語の名残なのだそうだ。 たとえば「shi」と言う発音だって、まず6つの声調で発音し、残りの3つはちょっと語尾が違う声調で発音(「sik」と言う)するのだ。  先生の後について皆で発音していく。「shi」「し」「シィ」・・・・・皆上手く発音できない。 先生も
「広東語は日本語にない音が一杯あるから、最初は日本人は誰も上手く言えないよ。モウマンタイ(広東語で大丈夫の意味)。」

 早く覚えたい一心で、ウォークマンやテープ教材を沢山購入して、暇さえあれば聞き始めた。 通勤時、入浴時・・・・・習うより慣れろ、だ。  ある時Tさんが私にこう言った。
「Mayさん(本当は本名で呼んでいるのだが、便宜上Mayで通させて頂く)、フェイ・ウォン聴いた事ある?」は?誰それ?
「香港ですごく売れてる歌手なの。Mayさん洋楽も聴くから、フェイはきっと好きだと思うけど。洋楽っぽい音なの。聴いてみる?」 フェイ・ウォン(王菲)、北京出身で、今は香港で活躍している中華圏では超有名な歌手なのだが、この時点では名前すら耳にした事がなかった。 今では日本でも名が知られているが、当時日本では一部の人しか知らなかった。  勉強になるならと、Tさんに「胡思乱想」と言うフェイの広東語CDを借りて、聴きはじめた。  今にして思うと、これが本格的に香港にドップリはまるきっかけだったのだ。


No,3  退職します

 広東語の勉強を続けていくうち、欲が出てきた。
「もっと広東語に接したい。もっとうまく喋りたい。」  日本だと通常生活では、広東語に接する機会が全くと言ってよい程ない。 接する機会が多い程、語学は上達が早いのだ。これではいつになったら、ちゃんと話せるようになるのだろうか? そこで上司に訊いてみた。
「あのう、この会社では、一年間の長期休暇は取得できるのでしょうか?」
私としては、一年間会社を休んで、香港に留学しようと考えた訳だ。だがしかし、
「あーダメダメ。無理だよそんな事は。人出足りないんだしさ。迷惑なんだよ。」
就職すると、会社によっては個人休暇を取る事は、許されないらしい。 別にお金いらないんだしさ、いいじゃん。どうしてダメなの?おかしいよ。納得いかないなぁ!

 考えても解らなくなったので、某有名製薬会社を退職して薬局経営している叔父に、 それとなく相談してみた。勿論、留学とは言わずにだ。
「叔父さん、会社を辞めたら、周りの人に迷惑かけちゃうかな?」
「○○ちゃん(本名)、会社はね、人一人いなくなっても、やっていけるモンだよ。 こっちが会社の事を思っていても、会社はこっちを顧みてくれないからね。いいんだよ、いつ辞めたって。 ちっとも迷惑なんかじゃないよ。心配しなさんな。」
 どうやら私は、人生の重大事項を、人に背中を押して貰わねば決められないらしい(苦笑)。 決意は決まった。

 父に留学云々を突然言い出すと、とんでもなく怒り出すので、まずは母に言った。
「お母さん、私、香港に留学したいから、会社を辞めるね。」
しばらく母は、そのままの姿勢で固まっていた。そして
「あんた、お金あるの?」
え?反対しない訳?
「あんたの事だから、私が反対しても行くんでしょう?自分のお金で行くんなら、反対はしないわよ。 気の済むまでやってきたら?」
さすが我が母、娘の性格を良く知っている。私はかなりな頑固者なのだ。 幸いにも、貯金がそれなりにあったので、お金の心配はなかった。何事をするにも、 まずはお金がないと成立しないからね。借金してまで、留学なんかするのには反対である。 親の次は、会社だ。

 明くる日、所属部の部長の所に行った。そして
「部長、私、8月で退職させて頂きます。」
「ち、ちょっと待ってよ。何か訳があるの?やりたい事でもあるの?」
「はい、長期休暇が取れないとの事でした。、長く休まないとできない事をしたいので、辞めさせて頂きます。」
「・・・・・・・。」
長いこと話し合って、結局は退職する事になった。1997年5月半ばのことであった。


No,4 情報入り乱れ、そして救世主現る

 退職すると決めてから、広東語の勉強にも一段と熱が入った。教材テープを聞き、香港ポップスをガンガン聴きまくった。 耳を慣らしておかないと。しかし、実際に使うのとは訳が違うのには、この時点で気が付かなかった。 そりゃそうよね、まったく今まで馴染みのない言語なんだから。  さて、いかにして香港の大學に入学するか?この時点で、解らない事ばかりだった。 今まではイギリスの植民地の為、イギリス大使館ですべてヴィザの手続きをしていたのであるが、香港は1997年7月1日をもって、中国に返還された。 だがしかし、中国大使館に出向いても、
「香港は特別行政区なので、こちらではヴィザが出せません。香港で取って下さい。」
おいおい、それはないんじゃないの?と言う事は、日本では香港の留学ヴィザは取れなくて、現地で直接取る訳ね。 はぁ〜大変だ。観光ヴィザで一旦入国しなくちゃいけなんだ。
 それと、大學選び。日本からの語学留学生を受け付けているのは、香港大學と香港中文大學の2校。 広東語の先生は香港大學を出ているので、こちらを薦める。 だがしかし、期間が半年か1年の単位(だったはず)なので、そこまで長期間勉強するかどうか決めてなかった私には、戸惑いがあった。  そんなときである。広東語クラスの同級生Oさんが、
「私の知り合いの香港人の女の人に、色々相談してみたら?」
なんと、自分の知り合いの香港人女性を紹介してくれると言う。しかもその香港人女性Karenは、日本に2年留学していたので、日本語がかなり達者だとの事。 早速、一面識もない彼女に、つたない中文で手紙を出した。

 2週間後、香港から分厚いエアメールが届いた。Karenからである。顔も知らない私の為に、色々大學の資料などを同封してくれたのだ。 そして手紙の内容は
「あなたが本当に香港で広東語を勉強したいのなら、私は全面的に協力します。何でも言って下さい。私の妹は香港中文大學の出身です。 ですから色々大學の事情は解ります。あそこは短期間でも留学生を受け付けてくれるので、何かと都合がいいと思います。 中文大學の入学申込書を同封したので、私の書いた見本を見て記入して、大學まで送り返すと手続きできます。それでは頑張って下さい。」
 退職前の棚卸の激務でヘロヘロになっていた私の頭の中は、一気に活性化した。よし、香港中文大學で勉強するぞ、と。後は手続きするだけだ。

 そして1997年8月15日、私は9年5ヶ月勤めた会社を正式に退職した。


No,5 ハプニング、そして出発

 9月に入って、香港へ留学の下見を兼ねて行った。広東語教室の同級生Kさんと一緒だ。 現地では別行動の日もあったりして、お互い好きなことをして過ごした。  この旅行で、初めてKarenに会った。彼女は日本に2年間留学していたので、日本語が恐ろしく上手で、私の母なぞは日本人と間違えた程である。 私より一つ年下、香港人女性にしては当たりの柔らかい感じの女性である。香港で生活するにあたっての注意時点など、こまごまとしたアドヴァイスをしてくれた。 こう言うことって、なかなか聞けないものだと思っていたから、彼女の心遣いがうれしかった。

 香港中文大學の広東語講座は、一年が3学期に分かれていて、1月〜4月、6月〜8月、9月〜12月の三つある。どの学期から参加しても良いのだ。 6段階ある語学レベルも自分で決める。 下見に行った時点で9月の半ばだったので、授業はすでに始まっていたから、この学期はあきらめて1月からの授業に参加することにした。 レベル1の発音から、じっくりと勉強だ。

 この旅行後、体調を崩した。風邪をこじらせて気管支炎になり、入院寸前まで悪化してしまったのだ。 前の会社の健康保険は当然切れていて、国民健康保険に未だ加入してなかったので、すべて自由診療。高っか〜い!ン万円もかかったんだから、保険って大事なんだね。 結果、自宅療養を1ヶ月。懐も身体にも、大層負担が掛かった出来事であった。

 11月に入って体調も回復したので、出発前に少しでも稼いでおこうかと思い、某デパートの食料品売り場にて、お歳暮のアルバイトをした。 時給もそこそこ良くて、忙しいけど楽しく働ける売り場だった。社員さんに
「××さん(本名)、お歳暮終わってもここで残って働いてくれるかな?」
と言われたけど、留学出発が12月26日にせまっていたので、うれしかったけど辞退した。留学がなければ、そのままいても良かったんだけどね。

 12月に入って、母が自宅で体調を崩して倒れた。父が救急病院に連れていった。診断は高血圧症と心労で、身体のバランスが崩れたのだそうだ。 私の留学の一件が、彼女の心と身体を痛めつけていたのだ。 高血圧は薬で何とか押さえられたのだが、留学については、これから当分心配のタネになってしまったのである。 私も母のことが心配だったが、弟が
「姉ちゃん、行くって決めたんだろ?オレがしっかり父さん母さんを守るから、安心して行って来いよ。」
甘ったれだった彼が、こんなことを自分から申し出てくれるなんて、今まででは考えられなかった。
「わかった。あんたに任せるから、行って来る。」

 12月24日、広東語教室の先生の知り合いで、日本に帰省中の香港在住日本人女性S嬢(結婚式レポートに出てくるS嬢と同一人物)に会った。 S嬢からもこまごましたアドヴァイスを受ける。S嬢曰く
「Mayさん、冬の香港は気温が10℃以下になるときもあるから、洋服は余分にあった方がいいですよ。」
到着して暫くしてから、イヤと言う程実感するのであるが、このときは知る由もなかった。

 12月26日の早朝、雪が降りそうなくらい寒く、気温は2℃。父の車にて横浜駅まで送ってもらう。一人で成田EXに乗車するのは初めてだ。 改札まで母が見送りに来た。
「身体に気をつけて、もし何かあったらすぐ帰ってきなさいよ(往復オープンチケットを買ってあった)。」
「私のことより、自分の心配してよね。じゃないとこっちも安心して行けないじゃん。」
「・・・・・わかったわ。お互い気をつけましょう。じゃ。」
EXの車中でも、気分は晴れなかった。

 成田に着いて、某日系航空会社にてチェックイン。荷物が何と32キロもあった。 洋服、日本で広東語を勉強していたときの教科書、英和&和英辞書、あちらでお世話になる方々へのお土産・・・・その他色々だ。 カウンター職員が
「申し訳ありませんが、30キロまではサービスで超過料金を頂かないのですが、あとの2キロは、頂戴させて頂きます。」
あれれ?エコノミークラスは20キロ以上払うんじゃないの?ま、オマケってことなのかな?良かった♪  機体は定刻通りに日本を離陸した。地面を離れると同時に、涙があふれてきた。今度いつ、日本に帰って来られるんだろう? 隣席のビジネスマン風の男性は、何も言わなかった。大泣きしている私を、見て見ぬ振りをしていてくれたのかも知れない。


No,6 到着

 大泣きしつつも機内食はしっかり全部平らげ、やがて香港に到着。しどろもどろの 受け答えでも何とか入国審査を通り、スーツケースを取りにターンテーブルまで行 く。暫くしてスーツケースが出てきたのはいいが、何せ32キロ。持ちあがらない。あ せっていたら、日本人観光客のオジさんが取ってくれた。
「何でこんなに荷物が重いの〜?」
「あの実は・・・・。」 訳を話すと、
「そうなんだ、身体に気を付けて勉強頑張って!」 香港で最初に受けた親切。これからイヤと言うほど受けることになる。

 到着ロビーにはKarenが待っていてくれた。久しぶりの再会。緊張が少しほぐれ る。早速タクシー乗り場へ向かう。タクシーを待ちながらKarenの話を聞く。
「阿Mayの住むトコロ、決まりました。私の友達が上水(しょんそい)と言うトコ ロにマンション借りました。そこに一緒に住むのがイイです。彼女は私の中学時代か らの親しい友人です。彼女とその妹が一つの部屋を使って、阿Mayがもう一つの部 屋を使いますね。彼女の名前はWinnieと言います。弟が日本の企業に勤めてますの で、日本のことは少し知っています。彼女は兄弟多いです。家庭が少し複雑みたい・ ・・。だから親から離れて暮らしたかったね。」  上水(しょんそい)は中国との国境のすぐ手前の駅である。そんな田舎に住むの?
「大丈夫、駅から歩いて5分。上水から大學駅まで電車で20分くらい。近いです。マ ンションはセキュリティもしっかりしてるから安全です。心配ないですよ。」  やがてタクシーが来たので乗り込む。空港からかなり離れているので、上水までは タクシーが便利だとのことだ。高速道路を飛ばして30分くらいで、上水のマンション 近くまで来ると、かなり近代的な高層マンションが立ち並んでいるので吃驚。
「上水は今とても開発されているので、チムサーチョイなんかから離れてるけど、と ても便利になりました。昔は畑や田んぼばっかりだったです。香港にはまだ開発され てないトコロがあるのです。」

 やがてこれから住むことになるマンション、巴黎閣と言う名前のマンションに到 着。13階の部屋まで行く。このマンション、入るのに暗証番号が必要で、押せないと マンション内に立ち入りは出来ない。部屋に着くと、Winnieとその妹Mavisが私を 待っていた。
「こんにちは(これだけはちゃんと日本語だった)阿May!××○○〜・・・。」 早い広東語で言われてもサッパリ解らない。WinnieもKarenに注意されて、あわてて 紙とボールペンを持ってきた。筆談を交えてつたない自己紹介をする。  で、色々話し合った結果、1つのリビング・2つのプライベートルーム・キッチン・ トイレ&風呂の物件をWinnieと私とで家賃を折半して払うということになった。電気 水道代も折半。家賃は一人当たり4,000香港ドル。当時のレートで日本円に換算する と、何と約76,000円!この金額だったら、自分一人でアパート借りられるよ、日本な ら。しかし土地の狭い香港、当然家賃もベラボウに高いので、仕方ないのである。

 しばらくしてKarenが
「今日は阿Mayも疲れているから、私の家にひとまず泊まって、落ち着いてからこ こに来て住んだ方がいいです。」 確かに今すぐここに住めと言われても、何かと不便である。2日後に戻ってくること にして、この日はWinnie達と取りあえず別れ、そしてKarenの家に向かった。


No,7 第一夜

 Karenの家がある馬鞍山(まーおんさん)と言う巨大ベッドタウンへ向かう。KCR (九広鉄道)大學駅から、バスで城門河(せんむんほー)と言う入り江を渡る。歩い て行けない距離ではないが、橋に歩道橋がないので、仕方なく一駅だけバスに乗る。 馬鞍山のKarenのマンションへ着く。

 「阿May、ねいほう(こんにちは)!×○▽×・・・・〜。」 Karenパパ&ママ、妹、弟、皆口々に早口の広東語でまくし立てる。そんなに言われ てもワカンナイよ〜(泣)。皆Karenにたしなめられて、筆談での会話(って言うの か?)になる。歳は?何処に住んでいたの?何で広東語を勉強しに来たの?恋人はい るの?一人でくるのに不安じゃなかった?・・・などなどの質問攻めに遭う。広東語 を交えつつ(単語のみ)筆談で次々に答えていく内、私のお腹が鳴り出した。恥ずか しい! 「機内食食べてから、何も食べてないでしょう?お腹すきましたね。阿マァ×○▽・ ・・(どうやら”お母さん早くご飯にしよう”と言ってるらしい)。」

 Karenに促され、皆食卓に着く。何やら見慣れない料理ばかりだ。 「これはですね、私の両親は潮州(ちょうしゅう=広東省東部の地名)出身ですの で、潮州料理です。日本人の口にきっと合うと思いますので、食べてみて下さい。す ごくおいしいですよ。」 良く日本の中華街で見かける中華料理とはかなり違う。特に目を引いたのは、大きい キンメ鯛を蒸してそのまま冷ましてある一皿だ。傍らには大豆が丸ごと浮かんでいる タレらしき小皿もある。 「これは潮州独特の魚の食べ方です。魚を蒸して冷まして、豆醤(たうじょん)とい う日本の味噌の原型のようなものを付けて食べますね。あと好みで胡椒をふってもお いしいです。」 早速食べてみる。 「あ〜好食(ほうせっ=おいしい)!好好食!」 初めて食べるのに、何故か懐かしい味がした。その他の料理もものすごくおいしい。 「この料理はですね、父が作りました。父は料理を作るのが得意です。料理を作って 人をもてなすのが大好きね。母はベジタリアンなので、野菜料理しか食べません。だ から他の料理はあまり得意じゃないね。」 パパもママも、にこにこして私の食べるのを見つめては 「好食阿?(ほうせっあ?=おいしいですか?)」 と口々に聞く。そして色々話し掛けてくるのだが、カナシイかな、私の広東語力はま だ全然無かった。解らん。気遣われているのは解るんだけど・・・。もっと彼らの話 しているのを理解できなきゃ。  食べ終わってドッと疲れが出た。早々に休ませてもらう。ベッドに入ると同時に眠 りに就いた。


No,8 ひとりぼっちの正月

 香港について2日目の12月27日、取りあえず香港中文大學へ行って入学手続きをし なくては、ということで、Karenのボーイフレンドの日本人Sさんと、Karenに付き 添ってもらって大學へ行った。 (この2人については、「Mayの香港結婚式レポート」を参照のこと)  中文大學の”新亜中国語文研習所”のある建物まで、KCR大學駅から歩いて数分。 香港には珍しく気持ちよい並木道が続いている。気持ちよく勉強できそうだ。事務所 にて留学ヴィザの証明ステッカーをもらう。日本から申請しておいたのだが、別に香 港に着いてから申請しても大丈夫だと知ったのは、こちらに来てからだった。返還直 後なので、情報が極端に少ないのだ。しかし、このステッカーをパスポートに貼っ て、一旦出国してからでないと、パスポートにヴィザのハンコを押してくれないの だ。しょうがないので、2週間後にマカオに遊びに行くことにする。  大學を後にして、チムサーチョイの香港上海銀行まで行く。ここでKarenは仕事で ちょっと抜けた。  Sさんに手伝ってもらって、銀行に口座を開いた。授業料はすべて小切手で支払わ なくてはいけないので、小切手が使用できる口座だ。維持費が年間250香港ドルか かるので、ちょっと痛い出費だ。  手続きが終わって、再びKarenが合流して飲茶のあと、色々街中を見て歩き、香港 の人ごみに少しでも慣れようとした。 「阿May、香港、好きになれそうですか?」 「日本とだいぶ違うけど、私、好きだから広東語を勉強しに来たんだもん。」

 12月28日、いよいよ自分の住むことになるマンションへ行った。日曜の午前中だと いうのに、Winn ieとMavisはすでに私を待っていた。 「阿May、我係Winnie(んごーはいウィニー=私はウィニー)××○○△▽・・・ ・・。」 仕方ないので、またも筆談となる。一緒に住めるのかなぁ?ちょっと不安・・・。  Winnieと手伝いに来てくれたKarenと共に、日用品の買出しに行く。敷き布団&掛 け布団&ベッドのマット、勉強する為の折りたたみ机(部屋がデカイ箪笥&ベッド付 きで、しかも約3畳程度の広さなので、しょうがなかった)、その他日常のこまごま した物を買った。幸いマンションの近くで全て揃ったので、自分達で全部運んだ。ふ 〜やれやれ。 「阿May、これで私は帰りますが、困った事があったらいつでも電話して下さい ね。勉強、ガンバッテ!」 Karenが帰っていった。これからはなるべく一人で何でもやらなくちゃ。

 Winnieとの共同生活は、以外にも上手くいった。彼女の弟は日本企業勤務なので、 ある程度日本人を理解していたみたいだ。でなかったら、一緒に生活するのは我慢な らなかっただろう。こちらの習慣なぞ、何も知らなかったんだから私は。筆談交じり の会話も、慣れれば楽しいものだ。だんだんと筆談を減らしていかなくては、いけな いんだけどね。今にして思うと、彼女は随分辛抱して、私に付き合ってくれたものだ と感心する。

 さて、なんだかんだで大晦日。Winnieが 「阿May、私達は実家に帰るからね〜♪」 とっとと出ていってしまった。 え?じゃあ、私は大晦日と元旦、一人で過ごすの????? こんな経験は、後にも先にもない。普段の日と同じ様な大晦日と元旦だ。オセチもな し、お雑煮もなし、新年の挨拶もなし、だ。あまりにもワビしいので、日本の両親に 電話する。 「お母さん、明けましておめでとう!」 「あれ、ウーニーさん(彼女はウィニーと発音できないらしい)達はどうしたの?」 「実家に帰ったよ。」 「そうお〜アンタもこれから一人で頑張ってね〜。」 テイクアウトのマクドナルドを夕食に食べ、早々に就寝する。明日は大學の説明会だ からね。

No,9 私、英語が解りませ〜ん


 ワビシいお正月の後、1998年1月2日(金)、大學の説明会があるので行った。大學 の事務所で、正式な手続きを取るのだが、事務のおっちゃんが英語で話しかけてき た。ま、当然なんだが、困った。全然解らない。 「あ、あいうぉんとぅ(英語のつもり)・・・・。」 モジモジしていると、列をなしてた人達からのザワメキが聞こえる。きっと何で英語 が解らないんだろう、あの日本人はと馬鹿にされてるんだろうなぁ。 「×××××〜!」 おっちゃんは怒鳴るし、マジで困ったそのとき 「あの〜日本の方ですか?」 後ろを振り向くと、日本人らしき中年男性が立っている。 「入学手続きですよね、ボクでよければ・・。」 何と、流暢な北京語でおっちゃんと交渉し始めたではないか。私も渡りに船だったの で、彼に訳を話して、おっちゃんに言うべきことを伝え、何とか手続きは終わった。

 「じゃ、お互い勉強頑張りましょう。」 中年男性は私の英語力をけなすでもなく、あっさり姿を消した。去り際にパスポート がチラリと見えたが、日本のだった。彼が持っていた書類も見えた。名前が”K〜” と書いてあった。Kさんか・・・覚えておこう。でも、あんなに北京語が流暢なの に、何で勉強しに来たんだろう?後にKさん繋がりで、友達の輪が広がるとは、この ときは気がつかなかった。

 手続きの後、ホールで説明会があった。座って話を聞くのだが、全然解らない。あちゃ〜!  ふと周りを見渡すと、さっきのKさんがいたので、隣に座った。 「先ほどはどうもありがとうございました。」 「あ〜さっきの。いやいや、どういたしまして。」 「本当に恥ずかしいです。全然英語が解らないのに、広東語なんか勉強しようとして るんですよ。」 「いや、英語は重要じゃないですよ、広東語を勉強するには。キアイで授業が理解で きるようになりますよ。平気平気。ボクも英語、話せないんでさっき北京語で話した んだ。」 「へ?あんなにお上手なのに、未だ勉強するんですか?」 「ちょっと仕事で、込み入ったことを話さなきゃいけないんで、もっと大陸人のよう に上手く話せないといけないんだ。だから、磨きをかけるとでも言うのかな?また勉 強ですよ。」 「はぁ・・・。」 「で、あなたのお名前は?ボクはK〜。」 「私は×○△□(本名)です。」 「じゃ、今度は授業が始まってから、廊下なんかで顔を合わせることになりそうです ね、よろしく。」 ・・・・・また日本人に助けられちゃった。  さ、来週1月5日(月)から授業が始まる。頑張らなくっちゃ!


No,10 無国籍集団


 1月5日(月)、ついにきた。  なんとなくドキドキしながら大學へ向かう。KCR大學駅に着いたはいいが、おい おい、人がいっぱいで電車から出られないよ〜。両手首だけ出してブラブラ振り回し ていたら、どこかの女の人が手首を引っ張って出してくれた。日本のラッシュだよこ れじゃ・・・。  よれよれになりながら、駅から歩いて5分の新亜中国語文研習所までの路すがら、 街路樹に掛かっている札を見ると、”相思樹”とある。台湾原産だってさ。”相思 樹”、何か趣のある木の名前だこと♪  気分良く教室へ入ってみると、そこは今まで会った事もないヒト達が集まっていた。

 1番先に目が合ったのは、白髪交じりの黒髪で細面の西洋人中年男性。ニコニコし て私に 「おはよう!(英語で・・・(英)と略すことにする)」 「ね、ねいほう(広東語で・・・(広)と略すことにする)」(ねいほう=こんにち は) 「Oh!広東語話せるのですか?(英)」 「ちょっとだけね。あなたは何処からきたのですか?(英)」 「私はメキシコから来た神父です。中国名あります。陳永達(ちゃん・うぃんだっ) と言います。両親からもらった名前はセルジオ〜(長いので忘れた)です。で、あな たは何処から来ましたか?(英)」 「私は〜(自己紹介する)(英)。」 「これから一緒に広東語を勉強していきましょうね。(英)」 差し出された手は、少しゴツゴツしてて暖かかった。

 セルジオ神父の隣に座っている金髪の若い男性が 「僕も神父なんですよ。ポーランド人だけどこの間までオーストラリアにいました。 僕も中国語名あります。簡 ・・・何て言ったっけ?忘れちゃった。本名はスラヴォミール〜長いから故郷ではス ラヴェと呼ばれています。(英)」

 スラヴェ神父の前に座っている、私と同じくらいの年齢の、天然パーマの金髪男性 も話し掛けてきた。 「僕はスイス国籍なんだけど、もう23年間も香港に住んでいます。名前は〜〜〜(難 しくてわからなかった)だけど、みんなテリーって呼んでます。(英)」

 テリーの隣にいた、ぽっちゃりした若いアジア系の女のコは 「私はマリア。両親は韓国人なの。でも私はアメリカ生まれのアメリカ人よ。父が香 港でビジネスをしてるから、こっちに来てみたの。(英)」

 3人で固まっている女性達がいた。見慣れた顔立ち、立ち振る舞い。そう、日本人 だ。20歳そこそこのNさん(ロンドン留学時に知り合ったB・Fが香港人だったから ついてきたのだそうだ)、ご主人の転勤に付いて来たHさん(私と同い年だった)、 香港映画に携わりたくて勉強しにきた30代半ばのMさん。  私だけじゃないんだね、広東語を勉強しようと思った日本人女性は。少し安心した。

 ちょっと懐かしくなってきた日本語で話していると、教室のドアが開いた。 「こんにちは〜!私はあなた方の担任のジニー・陳です!(英)」 元気の良い香港人だ・・・。もう中年だろうけど、とてもキレイな女性だなぁ。 「みなさん、私の言ってることが解るかしら?(広)」 一同、????? 私は何とかそれくらいは知っていたので 「はい、解ります。(広)」 「じゃ〜〜〜〜(もう難しくなって解らない)?(広)」 「すみませ〜ん、もう解りません。(英)」 「じゃ、英語でみなさん自己紹介してもらおうかしら?(英)」 そう言って、ジニー老師はニヤリと微笑んだ。

 げ〜英語だよ・・・。


No,11 Only Cantonese!

 さて、いよいよ授業。  クラス編成は1クラス最高で8人まで、最小で3人。会話重視で教える為、これが手 一杯らしい。あまり人数が多いと、会話練習が上手くできないからだ。私が入った” 広東語レベル1午前”のクラスは、ちょうど人数が8人だったのだ。午後のクラスの方 が、日本人が多いそうだ。勉強は午前中にやって、午後は予習・復習にあてようと 思っていた。そうすれば時間が有効に使えるからね。  授業ごとに先生の部屋をクラスの皆で訪問して授業を受ける形だ。とても狭い廊下 で、休み時間は人でゴッタ返す。西洋人同士が立ち話なんぞしてると、身体がデカい から、はっきり言って邪魔である。「[ロ吾]該(んこい=すみません)!」の声が飛 び交う。頼むから通らせて〜。  AM9:30〜12:30まで、3回の講座がある。途中休憩はあるが移動時間でとられて、 トイレに行くのも時間と相談のうえでないと、授業に遅刻する羽目になる。大目に見 てくれる先生もいるが、キビシイ先生もいるから・・・。教え方もさまざまで、なか なかバラエティに豊んでいた。  先生達は皆香港人で、ほとんどが外国留学経験ありだ。従って英語は流暢・・・と 言いたいところだが、ところがどっこい、さにあらず。

 ミセス羅(ろー)は、外見は昔風のチリチリパーマで丸眼鏡、丸顔の、一見する と”何だこのオバハン”な人なのだが、実はこの人の授業がイチバン厳しかった。 「はーい皆さんオハヨウ!私はミセス羅です。英語は苦手なので広東語で授業します ね。広東語に早く慣れて、皆さん早く話せるようになりましょうね。(←ここまです べて広東語)Do you understand?」 スラヴェ神父が 「すみません、あなたの言ってることがわかりません(英)。」 「あなた方は広東語を学びにきたのでしょ?それに私は英語が苦手なの(英)。」 ミセス羅、英語で著書も出してるんだが。英語を使うこと自体が嫌いらしい。 「で、でも・・・(英)。」 「Only Cantonese!」 広東語が丸っきり解らない人に対して、これはかなりキビシイ。 それくらい自分に厳しくしないと、広東語は学べないのだなと、悟った。


No,12 聞き取り大キライ

 初心者の私達の授業には、広東語発音の聞き取りの授業があった。 視聴覚室でイヤホーンを使って、広東語の微妙な発音の違いを学ぶのだ。 子音の「n」と「ng」、「ap」と「at」と「ak」の違いなど、 よーく聞いていないと分からないのだ。 実はこの授業が、一番イヤだった。なぜなら目に頼らないからだ。 耳で聞いた音のみが頼りで、ボディランゲージも通じない。 指示される言語は英語だし、とにかく頭が混乱する。英語で 「次の発音のうち、一つだけ違う音が入っている。それに○をつけなさい。」 なーんて言われても、何を言われているんだかが、分からない。 先生が、 「○○小姐(私のこと)、言われた通りにやって下さいね(英)。」 「すみません、何を言われたのか分からないんです・・・(広)。」 「???次の発音のうち、一つだけ違う音が入っている。 それに○をつけなさい、と言うことですよ。(広)」 級友達は 「○○小姐は、どうして英語が分からないのかしら?」 と、不思議がっていたと思う。 広東語で言われたことは私も分かるのだが、自分で発音してみるとなると、 上手くいかない。まして英語はさっぱりだ。 私は一体何の為にここに来たんだろう? 広東語を学ぶ為に来たのに、この始末。情けない。 ちょっとしたノイローゼに陥り始めていた。

 しかし慣れと言うのは恐ろしいもので、何回かこの授業を受けるうちに、 だんだん英語で何を言われているか分かるようになってきた。 そうすると広東語の発音の違いも、分かるようになってきた。 耳が慣れるとは、こう言うことだ。  一番最初からつまずいたが、何とか授業についていけた。 やれば何とかなるものだ。


No,13  Winnie倒れる!

 何だかんだで、半月が過ぎた。 相変わらずWinnie&Mavis姉妹とは筆談だが、 徐々に広東語でも話せるようになってきた。 日本では今どんな洋服が流行っている? 香港の女の子達は何故男の子を顎で使うのか?金城武をどう思う? などなど・・・・・所詮女の子の雑談だが、話せると楽しいものだ。  一般的に香港人は、日本人同様、カラオケが大好きだ。 Winnieもよく、友人達を呼んで自宅でカラオケ大会(?)をしていた。 香港の住宅は狭く、そして居住人数が少ない家はあまりないから、 こういう家は友人達の溜まり場と化す。カラオケBOXよりずっと安上がりだし、 それにWinnieのおいしい手料理が食べれられるからね。 あ、材料費は各自割り勘&持ちよりだけど、 調理は全部Winnieだ。本人も嫌でないらしい。  ホントならうるさくてかなわない!と思うところなのだろうが、 私は”これも広東語の勉強になる”と思い、何も言わなかった。 事実、私の思った通りだったのである。 大学生ではない、香港のOL達との何気ない会話・・・ 気は強いけど芯はやさしい彼女達に接することができて、私もうれしかった。

 遊びに勉強に仕事にと忙しい(?)毎日を、私とWinnie達は過ごしていた。  その静寂が破られたのは、 1月中旬のひどく冷え込む(気温8℃)ある夜のことだった。  午前1時頃、寝入りばなの私を、Mavisがたたき起こした。 部屋のノックもせずに(こんなことはこれ1回きりだったが)、 「阿May、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが!!!(広)」 Mavisのあとに付いて彼女達の部屋に入ったら、 2段ベッド(狭い香港では、大人でも当たり前に使用する)の上段で、 Winnieが口から泡を吹いて、白目を剥き出しにして横たわっていた。 全身が痙攣している。てんかんの発作か?舌を少し噛んだみたいで、 泡の他に血も少し流れている。きつけの為にMavisが ”白花油”(ばっふあーやう=上品なタイガーバームの液体版という感じの  香港ではポピュラーな家庭常備薬)の瓶の口をWinnieの鼻先に当てた。 やがてWinnieは意識を取り戻し 「私、いったいどうしたの・・・?(広)」 「大丈夫お姉ちゃん、救急車を呼んだから病院へ行こうね。 心配しないでいいよ。(広)」  その間、私はどうしていたか?  情けないことに、腰を抜かしてフローリングの床に座りこんでいたのだ。 しかしMavisの”救急車が〜”と言う言葉に我に返って、 それじゃあ救急隊の人達が来て、 リビングの机が邪魔になるから片ずけなきゃ、と動いた。 部屋の隅に机と椅子を寄せた。 玄関も鉄格子を外し(泥棒よけの為、香港の一般的住宅の玄関は 鉄格子がはまっている)、人が入りやすいようにセットした。  しばらくして救急隊の人達が全部で4人入ってきた。 警察官も2人いる。そのうちの1人が私に向かって 「で、あなたはこの人達(Winnie&Mavis)とどう言う関係ですか?(広)」  「私は日本人です。広東語を勉強しに香港に来ました。留学生です。 彼らと一緒に住んでいます。(広)」 Mavisが簡単に私のことを補足説明し、その場はおさまった。 「阿May、一緒に病院へ行ってくるね。後で説明はするから。(広)」  そして救急隊によりWinnieは病院へ運ばれた。

 心配でそれからは朝まで一睡も出来なかった。 午前7時半頃、Mavisが帰宅した。 「ねぇ、Winnieは一体どうしちゃったの?」 「Winnieはね、××○○○△△〜」 どうやら病名を説明しているらしい。 が、広東語で病名なんぞ言われても解る訳がない。 この間、Mavisと私は英語・広東語・日本語をごちゃ混ぜにして話していた。 もちろん筆談も同時進行だ。 業を煮やしたMavisが 「TV、ポケモン〜」 と言って目の辺りで手をパーに開き、パタンと倒れるマネをした。 「もしかして・・・てんかんの発作?」  そう言えば1ヶ月程前、日本製アニメ「ポケットモンスター」で 光性ショックてんかん(だったっけ?)と言う病気があることが報道されていた。 そうかそれだ! 「解ったよ〜!」  「解ってくれた?良かった〜。じゃあ私は会社に行って、 それから今日は病院でWinnieの看病をするんで、帰れないから・・・。」  入院に必要なモノ一式を持って、Mavisは出ていった。 私も慌てて大學へ行く準備を始めた。


No,14 突撃!隣の晩御飯?

 Winnieは翌日の午後、帰宅した。検査入院を1泊したわけだ。 てんかんと言う病は、薬を飲んでいれば、発作はおきないそうだ。 彼女はつい忘れていたらしい。 「ごめんね、心配かけて・・・。(広)」 いいのだ、無事ならば。その後、彼女は薬を飲み忘れることなく生活している。

 それから約1週間して、農歴新年(のんりっさんにん=旧正月)の休みが始まった。 日本のお正月と同様、企業も学校も1週間の休みになる。 大學は旧正月の元旦前日から休みだ。  休みに入る前日のこと、大學の校舎の廊下で、 入学のときにお世話になった日本人Kさんにバッタリ出くわした。 「やぁ、May(これから日本人が私を呼ぶ場合、ハンドルネームのMayと 表記することにする)さん、授業はどんな感じ?」 「はぁ〜付いていくのが大変ですけど、何とかやってます。」 「ところでさ、明日の夜、予定入ってるかな? 実は僕の香港人の知人が旧正月のご馳走をしてくれるっていうんで、 招待されてるんだけど、良かったら一緒に行かない? 僕のクラスメートの日本人の女のコと韓国人の男のコも一緒に行くんだ。 どう?広東語の勉強にもなるしね。」 「・・・・・いいんですか?うわ〜是非行きます!」 一人だったら多分行かなかっただろうけど、 複数だったら、ま、平気だろうと思った。 「じゃ、地下鉄のアドミラリティ(金鐘=がむちょん)駅の×出口で、 午後6:30待ち合わせで。」

 次の日、約束の時間よりちょっと早めに行くと、 ケイン・コスギをひょろ長くしたような、どこか見覚えのある男のコ (22、3歳くらい?)が、きょろきょろと当たりを見廻していた。そして 「アノ〜Mayサンデスネ?(日本語!)」 「はっはい!もしかしてKさんの・・・(思わず私も日本語)?」 「僕、ディン(仮名)といいます。韓国人です。 大學でMayさんのことは見ていたから、顔は知ってた。 少しだけ日本語話せます。どうぞよろしく。(英)」 私も自己紹介をし(広東語と英語が混ざった)、待つうちにやがてKさん、 少し遅れて日本人のAちゃんが来た。 Aちゃんは中部地方の某大学からの交換留学生で、 お互い日本に帰国した今でも、時々会ったりメールをやり取りしている。 大學で仲良くなった日本人の女のコは、彼女ともう一人だけである。 私以外は普通話(北京語)を勉強しているので、 招かれたお宅では、普通話で会話するらしい。ああ困った・・・。

 高級住宅地であるミッドレベル(半山区=ぶんさんこい)まで、 バスに乗って30分くらいで着いた。香港大學に程近い。 高そうな(建物の高さも価格も)あるマンションのなかに入り、 お邪魔したのは許太太(マダムホイ=ほいたいたい)のお宅。 50代くらいの柔和なご婦人だ。Kさんは某宗教団体(決してカルトではない) の布教がお仕事で、許太太はそのお仲間なのだそうだ。 同じく優しげなご主人とお出迎えして下さった。 「Kさんからお話は伺ってます、あなたがMayさんですね。 広東語を勉強なさってるのですってね?私は福建人だけど、 香港暮らしが長いから、広東語でお話ししてもOKですよ。 どうぞよろしくね。(広および北)」 ・・・・・私の広東語は未だそれ程流暢じゃなくて、 このときも筆談とKさん達の通訳で、何とか会話が成り立っていた。 このときは実に困った。オマケに許太太、 時々福建語を混ぜて喋ってくださるので(本人もついそうしてしまうのだろう)、 余計に頭が混乱してくる。Kさんが 「許太太、Mayさんは未だ広東語がそれ程話せないから、 もっとゆっくりと簡単に話して下さいよ。(北)」 「そうだったわね。(北) さ、お腹が空いたでしょう、食事にしましょうね。 (広)」

 許太太に促され、一同食卓に着く。 許太太のお家は一家揃って菜食主義者なので、 今日の料理も精進料理である。 しかーし、日本の寺などで供される精進料理とは、全然違う。 あくまでも中華料理なのだ。濃厚で、ボリュームがある。 だが、許太太の丹精込めた精進料理は、 大豆タンパクなどで、肉や魚の擬態を作るのだ。 ちっとも”野菜ばっかり”、というイメージではない。 食卓は、広東語&普通話&英語&福建語&日本語が飛び交い、 妙ちきりんな会話が弾む。 食べるのに夢中で、肝心の広東語会話も疎かになってしまった気がする。 いかんね、こりゃ。 それと、食事の献立も忘れてしまった。 あんなにおいしく野菜を調理できる中国人って、すごく羨ましい。それだけは確実 だ。  デザートの湯圓(とんゆん=白玉おしるこ)までしっかりとご馳走になり、 許太太宅を辞した。 「湯圓はお正月の前日に食べる習慣があります。 すべてが丸く収まりますようにって、お月様にお願いするのです。 ・・・・・今日は楽しかったです、またいらして下さいね。(広)」

 実はこの2ヶ月後に再び訪問するとは、思わなんだ・・・。

 帰路、Kさんが、 「今日は香港の大晦日だから、交通機関も終夜営業しているよ。 ビクトリア広場(維多利亞広場)で、花市をやってるんだ。見に行かない?」  私とAちゃんはK氏と一緒に花市へ、 ディン君は韓国人の年越しパーティーへ行くことになったのだった。


No,15 維多利亞公園の花市

 K氏とAちゃんと小巴(しうばー=ミニバス・・・ 16人乗りの乗合バス 駐車禁止以外の場所ならどこでも乗り降り可)に乗り、 ミッドレベルから急な坂を猛スピードで下り降りる。 銅鑼湾(とんろーわん=コーズウェイベイ)にある維多利亞公園まで、 随分と高低さがあるのだ。運転は乱暴だ。 K氏は小巴に慣れてるから何とも無かったが、 私とAちゃんは、座席から転げ落ちそうになる。 この車内でお喋りすると、確実に舌を噛む羽目になるので、ご用心。

 銅鑼湾に着くと、人人人!! 香港人にとっての大晦日は、旧正月前日のこの日だから賑わっているのだ。 K氏は 「何でこの日だけ花市を開くんだろうね?」 「日本人が門松を飾るのと一緒じゃないんですか?」 と私。推測だけど、多分間違い無いと思う。 香港では新年を迎えるに当たって、 縁起を担いで用意するものが沢山ある。 金柑の鉢植え(中国語の発音で ”吉” と同じ)、 桃の花の鉢植え若しくは切花(桃は多産だから)、 ジンジャーフラワー(生姜の花)などの生花そして果物(仏壇に供える)、 お線香、キレイな模様の入った蝋燭、ランタン(中国風提灯)、 玄関に張るお札(「恭喜發財」「萬事如意」とか書いてある)、 利是(らいし=日本で言うお年玉 既婚者から未婚者にあげる習慣がある) を入れる紅いド派手なポチ袋・・・・・などなど。 他には日本の縁日みたいな雰囲気で、何でもアリの世界だ。 ただ大晦日だけあって、 日本の縁日の混み具合とは比較にならない程混雑している。 この日の為に、バス会社も臨時バスを増発して乗客の確保に勤めている。 一日限りの維多利亞公園の花市行きバス、なんて何だかイイ感じ?  その中を3人で歩き回る。 疲れてはいるのだが物珍しさで好奇心が一杯だ。 どうせ取られるお金は大して持ってないし(当然の如くこう言う場所はスリ多し)、 雑踏の中にいると、一人でくらしていると感じる、そこはかとない寂しさも紛れる。 沢山の家族連れの中の一員になった気がするのだ。

 特に何も買わず、維多利亞公園をあとにする。 K氏は日本人駐在員が多く住む太古城(タイクーシン)、 私は上水(しょんそい)、Aちゃんは大學の寮まで帰るのだ。 地下鉄もKCR(九広鉄道)も、この日は終夜営業なので、 時間を気にする必要は無い。 公園から地下鉄の駅まで、人込みがすごくてえらく時間が掛かる。 日本のラッシュ並みだ。地下鉄からKCRに乗り換え、家路に着く。 KCRの車内は、帰宅する人で一杯。 酔っぱらった人も何人かいたけど、日本のようにだらしない人はおらず、 皆お行儀良くつり革につかまっている。 ” 特に暗いところに行かない限り、香港の方が安全じゃない?” Aちゃんと、そんな事を話した。彼女も私も、香港に段々と染まってきたらしい(笑)。


No,16 はじめての考試(はうし=試験)

 一人っ きりの休みの過ごし方にも慣れた。旧正月の休み中、WinnieとMavisは実 家で過ごす為、マンションに帰ってこなかったのだ。最初は不安だったが、慣れれば 何とかなる。開いている食堂へ行って日々の食事を取ったり、衛星放送TVで香港明 星のMTVを観まくったり(番組が台湾で製作されているので普通話の歌が多い)、 勿論館広東語の勉強!寒いので布団にくるまりながら、テープを聴き、それに合わせ て発音する。この発音で間違っていないか?そんなことが頭の中をよぎるが、誰もい ないんだからしょうがないじゃない?負け惜しみでも強がりでもなく、なんてことは なかった。

 それなりに有意義な旧正月休みが終って暫くすると、筆記の試験(広東語では試験 の事を考試=はうし と言う)がある。まるで日本の高校の授業のように、 「教科書の××ページから○○ページまでが範囲ですよ〜。(広)」 なんて先生が仰ってくださるので、勉強しやすく・・・思えるだろうが、私には一大 事だった。 だって、出題が英語なんだから。 やれやれと英語の辞書を開きつつ、広東語と英語の勉強だ。家に帰ってからも当然勉 強。そんな私を見てWinnieが 「阿May、あなたは広東語の勉強をしてるんじゃなかったの?(広)」 「そうなんだけどね〜出題が英語なのよ。ほら、私、英語が苦手でしょ?だから両方 勉強しないと、考試の問題が理解できないの。(身振り&広)」 「私にできることがあったら、遠慮なく言ってね。手伝うから。(広)」 「ありがと・・・でも、自分でやらないと、この先もっと解らなくなっちゃうでしょ ?だから一人で勉強するね。(広)」 寝る間も惜しんで、と言う程ではなかったが、英和&和英辞書と教科書との取っ組み 合いは暫く続いた。

 さて当日。  担任のジニー先生の試験監督で始まった。みなボールペンで書きこんでいる。間違 えたらどうするのか?私なんか絶対間違えるから、シャーペン&消しゴムは必需品 だ。解答に自信ないしね。  試験が進むにつれ、案の定出題の意味が解らない個所がでてきた。困ったこまっ た。頭を抱えてうなっていたら、そっと私の横にジニー先生が寄ってきて、小声で囁 いた。 「これと反対の意味を発音記号で書きなさい、という意味ですよ。(広)」 ああ〜助けてもらうまいと思っていたのに、この始末。自分が情けなかった。  試験が終ったあと、クラスの皆は口々に結果がどうなるか話していたが、とても じゃないけどそんな気分にはならなかった。早く帰って横になりたかった。久しぶり に心身が疲れ果ててしまったようだった。  お陰でその日は早く布団に入ったが、直ぐに眠りに付いた。

 2、3日して、答案用紙が返却された。答え合わせは試験監督の先生とは別の先生が するので、羅太太が返却してくれた。 「○○(本名)小姐、ここがちょっとダメだけど、後は良くできていますよ。 (広)」 見ると・・・74点。まぁまぁかな? ふと隣に座っていたテリーの答案用紙を覗いたら、8?点だった。 「なんでそんなにイイ点数なの?(広)」 「それほどでもないよ。普段少し使っているからね、慣れてるのかな♪(広)」 訊けば彼のガールフレンドは香港人だそうだ。一番早い勉強方法ってワケね(笑)。  私だって香港人と一緒に生活している。彼の様にできないことはないのだ。  負けずギライの炎(?)が、心に燃えてきた。よーしやったるぞ!


No,17  余計なお世話

 大學の先生方は、個性的 なヒトばかりだ。身なりと話し振り(日本に留学していた)がまるで日本人みたいな 梁老師、何と生徒だった人と結婚した馬太太、ご主人がイギリス人でお洒落な苗太 太、チリチリパーマで英語嫌いの羅太太、ハンサムで優しいけど若ハゲを気にしてい る李老師、大學生に間違われるくらい若く見える蔡小姐・・・まだいらっしゃるけ ど、一番香港人らしいなと思ったのは、呉小姐。理由は下記の通り。

 呉小姐の授業。 「あなたは普段、朝食を食べますか?」 と言う問いに、答えていたときのことだった。 日本人のHさんに、まず呉小姐が質問して、Hさんが「食べません。」と答えた。そ の後、韓国系アメリカ人のマリアに同じ質問をして、マリアも同じく「食べませ ん。」と答えた。  そうしたら何と呉小姐は 「あら〜Hさんもマリアも朝食を食べないけど、どうしてHさんは痩せていて、マリ アは太っているわねぇ。(広)」 いくら広東語が解らない生徒の前でも、こんな暴言を吐いて良いものだろうか?その 場で呉小姐の広東語をすぐに理解できたのは、私とテリーだけ。思わずお互いの顔を 見て 「オカシイよね?(日)」(テリーの前のガールフレンドは日本人なので、少し日本 語が話せるのだ) 「ヒドイよ!(日)」 感の良いHさんが、私に 「もしかしてマリアのこと、何かヒドイ事を言ったんじゃないの?」 「うん、Hさんもマリアも朝食食べないのに、Hさんは痩せていて、マリアは太って いるって言ってたのよ。」 「いくら私達が広東語を理解できないからって、そんなヒドイことを言っていいもの なの?!」 「いけないでしょ?」 「ヒドイよね!」 日本語でブツブツ文句を言ってる私達を、他のクラスメートと当の呉小姐は、口をポ カンと開けて眺めていた。彼らは日本語が解らないから。呉小姐はいい気味だわ。

 家に帰って、Winnieに今日の授業での出来事を話した。 「ねぇ、香港人って、思ったことを口に出して喋っちゃうの?(広)」 「そういう香港人もいる、けど大半の香港人は、そんな失礼な事は言わないよ。阿M ayのクラスメートは、カワイそうだったね。(広)」 何事もステレオタイプだ考えてはいけなかったね。Winnieごめん。でも、やっ ぱり呉小姐の言葉は、余計なお世話だよ。


No,18 市場にて

 いくらルームメイトと一緒に住 んでいると言っても、いつも寝食を共にしているのではない。 一人で食事を取ることも良くある。そうするとどんな献立になるか? ・・・野菜が不足するのだ。一人の食事はどうしても炭水化物が多くなる。そうでな いと、エンゲル係数が異様に高い価になってしまうのだ。自分で作ればいいんだろう けど、材料を小分けでは売ってくれないので、結局は腐らせてしまうのだ。一人の自 炊は苦しい香港・・・。

 野菜は日持ちがしないけど、果物なら多少は大丈夫。そこで良く利用したのが、市 場の中の果物屋さん。何故か果物は、橙(ちゃあん=オレンジ)や萍果(ぺんぐぅお =リンゴ)など、2〜3個から売ってくれる。勿論まとめ買いした方が安上がりだか ら、12個(1ダースね)ドバッと買おうと思っていた。  橙はそれ程買わなかったが(香港人は食後に橙を食べるのが習慣のようになってい るから、いささか飽きていたのだ)、私が良く買っていたのが萍果。萍果にも何種類 があって、中国産のフジリンゴ(日本のアルプス乙女リンゴ並みの小ささ)や、作り モノの様に真っ赤だけど味は大味のアメリカ産リンゴ(品種は忘れた)、硬くて酸っ ぱいカナダやニュージーランド産の青リンゴ(グラニースミス)などがあった。日本 の立派なリンゴを見慣れた目には ”ショボイ感じのリンゴ ” としか目に写らな かったけど、長いことリンゴを口にしていなかった私にとっては、どれもが新鮮だっ た。早く丸齧りしたかった。

 古い日本映画にでも出てきそうな、自宅マンション近くの薄暗い市場の中。裸電球 がぶら下がっていて、店先には山盛りの果物があって、今にも雪崩を起こしそう(実 際に落っこちた場面を何回も目撃している)。天井から釣り銭用のザルがぶら下がっ ているのはご愛嬌と言ったところか。古びた秤も置いてあるのだが、ナンとポンド用 の秤。香港では、まだまだポンドが幅を利かせているらしい。どうせ萍果と香蕉 (ひょんじう=バナナ)くらいしか買わない私にゃ用はない(香蕉は1房売り)。早 速お目当ての青リンゴを目の前にして意気込んでいると、お店のオバチャンが 「小姐、幾つ欲しいんだい?(広)」 「1打(やっだあ=1ダース)お願い!(広)」 「・・・・・小姐、あんた一人でこれを全部食べるのかい?止めた方がいいよ。 (広)」 「まさか、友達と一緒に食べるのよ、大丈夫だから。(広)」 他にもミネラルウォーター数本などを超級市場(ちうかっぷしーちょん=スーパー マーケット)で購入した為、重くてしょうがない。よろよろしながらマンションに辿 りついた。

「た、ただいま〜青リンゴ食べる?(広)」 「阿May、果物なら橙があるのに〜買わなくても良かったのよ。(広)」 「だって私が食べたかったの。良かったら一つどう?(広)」 たまたまその日家にいたMavis(Winnieの妹)に、青リンゴを1個上げ た。彼女は自分で皮を剥いて一口齧ると 「・・・・・ゲッ!酸っぱいよ。(広)」 私からすれば、ちょうど良い酸味なのだが。 「香港人は、酸っぱい果物はあまり好まないの。(広)」 だから作りモノの様なアメリカ産のリンゴ(大味だが甘味はある)の方が売れるの ね。

結局、市場のオバチャンの懸念が当たったようで、残りの11個は全て自分で食べた(笑)。

No,19 遠足

 大學の授業の一環として、遠足がある。日帰りでクラス全員が参加(なるべくな ら)の行事だ。大抵は郊外をバスに乗って見て回ることになる。我がジニー老師のク ラスもランタオ島(香港国際空港のある島)へ行くことになった。他のクラスと合同 で、大學内のスクールバスまで貸し切りにした。でもスクールバス、ちょっとちゃち いから、乗り心地悪いんだよね・・・トホホ。  当日、我がクラスは、仕事でインドに出張中のテリーと風邪を引いたマリアを除い て6人が集まった。他のクラスの西洋人ご夫婦(一緒に大學に通っている)は、赤 ちゃんまで連れてきていた。何だか社員慰安旅行みたいだわ・・・。上手い具合に全 員乗りこめた。座席が狭いから、大柄の西洋人の生徒にはキツイだろうがガマンガマ ン。

 出発し、おんぼろスクールバスは高速道路を突っ走る。事故りはしないかなぁ・・ ・と物騒な考えが頭をよぎる。だっていつ廃車になってもおかしくないくらい古いバ スなんだもの。途中、青馬大橋(ちんまーだいきう)と言うランタオ島へ渡る大きな 吊り橋を見渡せる駐車場でトイレ休憩。ベイブリッジより大きい、とても美しい橋 だ。みんなで思い思いに記念撮影をする。さ〜遠足らしくなってきたね(笑)。  ランタオ島は自然がいっぱい残っている島だ。平地がほとんどなく、土地が痩せて いるので、主な産業は漁業と、最近では鉄道も開通したので(遠足当時は鉄道は開通 してなかった)観光も盛んになりつつある。バスでも行けるが、香港中心地のセント ラルからフェリーが出ているので、それで行って、安くて新鮮な海鮮料理を楽しんで くるのも良いだろう。海水浴もできるので、ちょっとしたリゾート気分も味わえる。

 香港島より広いランタオ島の高速道路を快調に飛ばし、おんぼろスクールバスは東 涌(とんちょん)というところで降りた。ここからは地元の路線バスに分乗し、東洋 のベニスと呼ばれる大澳(だいおう)という古い港町(というには規模が小さすぎる が)へ向かう。冷房バスはやや割高なので、非冷房バスを待つ。やがて来た路線バス は、大學のスクールバスと同じくらいのくたびれよう。使えるモノはとことん使う姿 勢だね(笑)。地元の方々に混じって皆でワイワイ乗り込む。違うクラスの日本人と 少しお話ししたりして、なんとなく交流ムード。バスは急な山道をジェットコース ターのように突っ走っていく。本物のよりスリリングだ(笑)。隣に座った蔡老師に 「日本ににも、こんな急な道はあるかしら?」(広) 「ありますよ〜箱根に。」(広) 「ハコネ・・?」 「××さ〜ん(他のクラスの日本人)、箱根って広東語で何て言うんでしたっけ? (日) 「箱根は”しょんがん”って言うんですよ確か。」(日) 「蔡小姐、”しょんがん”ってご存知ですか?」(広) 「あ〜”しょんがん”ね、知ってるわ。有名な観光地よね。」(広) ・・・・・自分の広東語力の無さに、少しイヤけが差したけど、これから覚えるもん ね。××さんより学んでいる期間は短いんだから、まだまだだしね。  山道を降りきり、海岸にバスは差しかかった。広い学校のような建物が見えてき た。学校にしては柵が厳重に張り巡らしてあって、何だか変。 「蔡小姐、あの建物はいったい何ですか?」(広) 「あれはね、少年院よ。」(英)(解らないと思ったのか、これは英語で言ってくれ た) 美しい海岸に面している少年院、柵がなけりゃリゾートホテルみたい。 「ここで、少年達にお話がしたいな。」(広) と、私の前に座っていたセルジオ神父。お説教がしたいらしい。さすが神父さんだけ あるねえ。

 1時間半走って、バスは大澳に着いた。とても小さな漁師の町。人が一人歩けるく らいの細い路地をゾロゾロと散策する。水路に面して木造家屋が立ち並んでいて、中 には水路上に家が立っている場合もある。そんな家の中を覗いたりして(失礼だな あ)、その土地の生活が垣間見れたような気がする。ここは細々とした土産物店はあ るが、観光地化されていない。魚屋さんで、巨大な頼尿蝦(らいりうはー=シャコ) が売っていた。体長30cmはあろうかというシロモノ。他の店でで[木留][木連](ら うりん=ドリアン)を発見。スラヴェ神父が 「あ〜僕、ドリアン食べたいなぁ。大好きなんだよ。」(広) 一同、?! 「あなた、ドリアン食べられるの?」(広) と、私。聞いたことがないよ。西洋人のドリアン好きもいるんだねえ。

 そろそろお昼の時間。総勢40人程の人数で、予約無しで入るのはどうかとも思われ たが、何とかお店を確保。ジニー老師が 「さ〜おいしい海鮮料理が出てくるわよ。ただし鮑やフカヒレは出ないけど。」 (広) やがてさまざまな魚料理が運ばれてきた。新鮮な素材なので、簡単な調理法だけど、 どれもみなおいしい。お腹が空いていたので、みなガツガツと食べる。騒がしいよ う、でも皆、香港スタイルが見についたみたいね。良く食べ、良く喋っているしね。  鹹魚(はむゆー=塩魚)が食卓に置いてあった。ご飯に乗せて食べたりするモノな ので、そのままではしょっぱいし、何より匂いに少々クセがある。セルジオ神父が、 「僕、これは食べたことがないな、試してみよう。」(広) そのまま口に運んだ。そのままじゃマズイんだけど・・・あ〜やっちゃたよ。 「し、しょっぱいね・・・。」(広) スラヴェ神父といい、神父たる者は好奇心旺盛でないと務まらないらしい?

 食後は関帝廟(ぐゎんだいみう)や小さな祠みたいなところを見て回った。ジニー 老師が 「三国志、知っていますか?」(広) クラスメートは、みな読んだ事がないらしい。私は好きなので、ジニー老師と話が弾 んだ。どうしたことか商売繁盛の神様として崇められているそうだ。実在の人物が神 様になっちゃうなんて、不思議だ。  廟の回りは何となく涼しくて、老人たちの憩いの場所になっている。子供たちの遊 び場にもなっている。子供達は外国人が珍しいのか、遠巻きにしている。そんな彼ら の一人に、セルジオ神父が 「スミマセン、チョットオシエテクダサイ〜」(広) 大胆にも質問しに行った。パッと散っていく子供達。恥かしいのかな?

 ブラブラと歩いているだけでも楽しい時間はアッと言う間に過ぎ、帰る時間だ。 皆、思い思いのルートで帰宅する。大澳から直接連絡船で帰宅するルートあり、梅窩 (むいおう)というランタオ島では賑やかな港から大型フェリーに乗って帰るテもあ る(この梅窩近くに香港ディズニーランドが建設される)。私は後者、セルジオ&ス ラヴェ両神父と共に梅窩経由で帰ることにした。その方がチムサーチョイに寄り道で きるのだ。日系デパートでレトルトカレー&パックご飯も買いたかったし(笑)。帰 りの船内では、3人共ぐっすり眠り込んでしまった。疲れたけど、楽しかったね。子 供に帰ったみたいでさ。  そう言えば、翌日はK氏&Aちゃんと、またも許太太のお宅にご招待されている し、夜はスラヴェ神父宅のバーベキューパーティーもあるのよね〜。広東語の勉強に もなるし(?)、たまには遊んでもイイよね?


No,20 日本と香港、日本と台湾

帰宅してすぐに、明日のバーベキューの支度に取りかかった。材料は皆が持ち寄 る。私は冷凍の軸つきトウモロコシを茹でて持参する魂胆。醤油を塗って焼いて、焼 きトウモロコシにするのだ。日本製の醤油はHさん(クラスメートの日本人)が提供 してくれるとのことだ。日本製の醤油は、値段が高くて私には買えない高嶺の花、H さんありがとう。やがてトウモロコシ8本分が茹で上がり、食べやすいように割り箸 をトウモロコシの軸に刺す。まぁこれで充分足りるでしょ〜と一安心。

 明くる日、ずっしりと重いトウモロコシを提げて出かける。途中、手土産用にゴ ディバの朱古力(ちゅくりっ=チョコレート)をデパートで購入。ちょっと高いモノ をフンパツしたけど、いつもご馳走になってばかりじゃ気が惹けるものね。約束の時 間より前に待ち合わせ場所に到着すると、K氏と若い男性が待っていた。日本人交換 留学生のリーダー的存在のO君だ。K氏曰く 「O君は知ってるよね?誘ってみたんだよ。」 留学生は家庭の味が恋しかろうとのK氏の配慮だろう。細かいトコロに気が付く人だ ・・・。 O君とは顔見知りでありながら言葉を交わしたことはなかったが、そこは異国に滞在 する日本人同士、すぐに打ち解ける。やがてAちゃんが合流し、許太太宅へ向かっ た。

 許太太宅に到着すると、見知らぬ70代くらいのの男性が一人同席していた。K氏や 許太太のお友達で、台湾人のCさんだ。年代的に日本語が話せるはずなのに、なぜか 彼は話さない。何故・・・?

 やがて許太太お手製料理が運ばれてきて、皆で食べ始める。しばらくしてCさんが こんなことを話し始めた。 「日本は第2次世界大戦で、台湾や朝鮮を植民地にし、香港を占領したのを知ってる ?知ってるなら良いんだ。私が学生だった若い頃、台湾に駐在していた日本人に迫害 まがいのことをされたんだ。勿論、やさしい日本人もいたよ。だがそれから、日本人 がとても怖い存在になってしまったんだ。韓国でも香港でも、僕のような人はいっぱ いいると思うよ。でも今日、こうして君達のような若い人達(とO君、Aちゃん、私 を見て)と親しく話せることができるなんて、我ながら不思議だよ。」(北)  Cさんがどんなヒドイ目にあったかは良く解らないけど、日本語を話さないのは ちゃんとした原因があったのね。だんだんCさんの心が安らいできたのは、何となく うれしい。きっとこれからは日本と香港、日本と台湾とが、楽しくお付き合いしてい けると思う。そうでなくてはいけないのだ。

 楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、もうおいとまする時間だ。帰りがけに許太太に ゴディバの朱古力を渡す。 「そんなに気を遣わなくてもいいのよ。親戚だと思っていいんだから。」(広) 私も親戚のオバサマのような気がしてならなかった。おいしくて楽しくて、すてきな お家、為になる会話・・・珍しい経験をさせてくれたK氏に感謝したい。  K氏とAちゃんとは許太太家近くで分かれ、O君とチムサーチョイまで一緒に行っ た。到着して少し時間があったので、海沿いのプロムナードに座ってお話する。何で もO君は香港で就職したいらしい。 「何だ、私もそうなのよ。」 「でも僕、働いた経験がないですから〜条件厳しいですよね。」 スキルのない私だって、同じように厳しい状態だ。お互い希望は捨てないでおこうよ ね。

 時間が過ぎ、O君は大學の寮に戻り、私はスラヴェ神父宅のバーベキューパー ティーへと向かった。


No,21  BGMは飛行機の爆音

 九龍バス5A に乗りこみ、スラヴェ神父の住まいでもある某カトリック系中学校へと向かう。こ 中学校、旧九龍城付近にあるため、少しゴミゴミとしたところだ。おまけに啓徳空港 (今は空港はランタオ島へ移転した)から1キロメートルと離れていない。色々な意 味で、すごい環境なのだ。

 バス停からほど近いところに中学校はあった。騒がしい街中にあって、この中学校 だけが静まりかえっている。生徒はもう帰宅したあとらしい。静寂を時々破ってゆく 着陸体制の飛行機の轟音。学校の門のところにいた門番のオバちゃんに 「あの〜簡神父(スラヴェ神父の中国名)を尋ねてきたのですが・・。」(広) オバちゃんはちょっと吃驚した様子だったが 「待ってなさい。」(広) スラヴェ神父を呼びにいった。ほどなくしてスラヴェ神父がやってきた。 「ようこそ、僕の家へ。君がイチバン先に到着だよ。一人でバスに乗ってきたの ?」(広&英)

約束時間の午後5時ちょうどに到着したのだったが、まだ誰も来ていなかった。学校 は6階建てだが、中学校は5階までで、6階部分は神父さん達の住居と屋上スペースに なっている。当然だがエレベーターはないので、6階まで徒歩で上がる。重たい荷物 で登りにくかったが 「僕が持つよ。重いね〜何を持ってきてくれたの?」(広&英) 「トウモロコシよ。これに醤油を塗って、日本式の焼きトウモロコシを食べてもらお うと思ったの。」(広&英) 「日本食大好きなんだ〜日本酒もね。」(広) 「今日はお酒は持って来れなかったわ。香港じゃ高くて買えないの(笑)。」(広)

 神父さん達の住居の6階に上がってきた。住居入り口の小部屋に、中国の神様がまつってある。 「ここはカトリックを布教しているところではないの?」(広) 「でも香港の神様も重要だよ。仲良くしないとね。」(広&英) 郷に入っては郷に従え、と言う事か。  神父さん達の住居は、質素だけどきれいでしかも広い。大きな書斎で皆の来るの を、他の神父さん達と待つ。皆、スラヴェ神父より先輩なので、広東語はそこそこ話 せる。国籍はさまざまだが、ここのは主に東欧諸国出身の方が多い。大柄で、気のや さしい人達だ。

「皆が来るまで、これでも読んでいてよ。」(広) 中国語や英語の雑誌を手渡される。英語は読みたくないので、中文の雑誌を眺める。 「中文、読んでいて解るの?僕はちっとも解らないよ。」(広) 「発音はまだ出来ないけど、読んでいて意味は解るわ。私は英語が苦手だから・・・。」(広&英) 「じゃ授業は?ちゃんと君は英語で受けてるじゃない?」(広&英) 「ついていくのに精一杯。理解するのは大変よ。」(広&英) 「大丈夫だよ。」(広)

 やがて三々五々皆が集まり始めたので、バーベキューが始まった。私達のクラスだ けでなく、他の広東語クラスの生徒も来ている。顔見知りは皆呼んだらしい。クラス メートの日本人Hさん達も来て、料理の下ごしらえを始めた。香港のバーベキュー は、火に食べ物を直にかざして焼く、本来のバーベキュースタイルだ。これでは焼く 効率が悪い気がするのだが、神父さん達はちゃんと網を用意しておいてくれた。 「これでちゃんと焼きトウモロコシが出来るわね。」

やれやれ。Hさんは 「おにぎりを作ってきたの。焼きおにぎりなんか、みんな好きかしら?」 「人気でそうじゃない?足りないかもよ。」 「本当だ・・・。」 それほどに招かれた人達が一杯だったが、住居と屋上スペースを合わせると、かなり の広さになる。みんなで食べ物を持ち寄っているから、そんなに費用もかかっていな い。大人数はお得だね。

 みんなの喧騒から離れて夜空を見上げてみると、ほぼ5分間隔で飛行機の離発着の 轟音が轟き、飛行機のお腹の部分がバッチリ見える。機体の文字もはっきり見えて、 日本に就航していない航空会社の飛行機が珍しかった。乗っている人の顔が見えるく らいの、本当に近いところなのだ。 「空港の夜景も見えて、きれいだね〜。」 Hさんとそう言って眺めていたら、いつのまにかスラヴェ神父が側にきて 「ここ、飛行機が良く見えるでしょ?でも毎日この音を聞いていると、ホントいやに なっちゃうよ。早く空港が移転してほしいと思っているんだ。」(広&英) たまに来る人には珍しいことだけど、日々の暮らしでは大変なことなんだね。反省。

 宴もたけなわになったころ、司会(?)のスラヴェ神父が 「今日はお誕生日の人がいまーす。××さん(私)とHさんです。皆でプレゼントを 用意しました。受け取って下さい。」(広&英) 皆の拍手のなかで、ジニー老師から手渡されたプレゼント。そういえば私、先月(2 月)が誕生日だったけ。覚えていてくれたんだ・・・。私へのプレゼントは広東語 ポップスのベスト版CD。色々な人の歌が入っている。 「あなたの好きな張學友(ジャッキー・チュン)も入ってるわよ。××さんは広東語 の歌が好きでしょう?」 と、別の日本人のクラスメートのMさん。私の嗜好を良くご存知で(笑)。 「これで、もっともっと広東語を勉強してね。」(広) とジニー老師。うん、これは勉強になりまっせ。

「みんなでそれぞれ、誕生日の歌を歌います。各自の出身地の言葉で歌って下さい。」(英) とスラヴェ神父。  総勢50人はいただろうか?それぞれの母国語で”ハッピーバースディ”を歌ってく れた。お国によっては、オリジナルの誕生日歌もあって、バラエティに富んだライン ナップだ。広東語、日本語、英語、フランス語、スウェーデン語、ノルウェー語、 ポーランド語、スペイン語、・・・。  あわてて空を見上げると、香港では珍しく星が見えていた(普段は見ることが困 難)。BGMは飛行機の爆音で。  もう2度と、こんな機会はないだろうと思うと、何だか涙が出てきた。


No,22 リコンファーム

 3月ももうすぐ終りに近づき、来学期の予定を決めなければならない。我がクラス は、韓国系アメリカ人のマリアはアメリカの大學へ復学するので帰国し、それ以外の 人達は勉強を続けることになった。 「こんなに残ってくれて、うれしいわ。」(広) とジニー老師。確かに7人も同じメンバーで同じクラスをまた構成するのは、珍し い。皆それだけ広東語を勉強した気持ちが強いのだ。実は私は当初、この1学期だけ で帰国しようと思っていた。自己資金が足りなさそうだったからだ。でもまだ足りな い、もっと勉強したい。そういうことを母に国際電話で話したら、 「あなたが勉強したかったら、やりなさい。今学期の学費は、実は私のへそくりから 出してたから、まだあなたのお金があるのよ。学費は幾ら?日本円で××××××円 くらいなのね。そっちの小切手の方の口座に振りこんでおくからね。」 ・・・・・なんてことだ、一人ですべてやってきたと思っていたけど、知らない間に 親に援助してもらってたんだ。 「で、(学期の間の)お休みには日本に帰ってくるの?」 「う〜んできれば帰りたいんだけど。授業がないと、どうしても余計に遊んじゃって ムダ遣いしちゃうからね。帰るとしたら約1ヶ月くらいの期間かな?」 「じゃあ今学期の授業が終ったら帰るのね。帰りの飛行機はどうするの?また香港に 戻るときの航空券は?」 「帰りの飛行機は、乗る予約を香港でしなきゃないけないんだよ。戻ってくる航空券 は日本で安く売ってるから大丈夫。」 さて、今までやったことのなかったリコンファームが必要だ。

 日本から持ってきた広東語教材を開く。飛行機の乗り方のところを見ると、リコン ファームで必要な単語が載っているので、それを頭の中に詰め込む。全部広東語で言 わなくてはいけないし(英語だっていいんだけど自信がないからね)、ちゃんとこち らの意志が伝わらないと大変なことになる。緊張するなあ。  大學のクラスメートMさんとリコンファームの事を話していたら、Mさんが 「日系の航空会社だったら、こっちでも日本語が通じるんじゃないの?」 あっそうか。私の持ってる帰りの切符は、日系の会社だったっけ。じゃ平気かな?

 やや不安な気持ちで金鐘(がむちょん=アドミラリティ)にある某日系航空会社の オフィスへと放課後出向いた(現在は移転)。ピカピカの広いビルの中、キチンとし た格好で闊歩する人達に混じって、涼みにきた地元民の人や、作業服姿(暑いからラ ンニングシャツ)のオニイチャンとかが歩いている。こういう風景は今の香港を象徴 していて面白い。ショッピングセンターもあるのだけど、値段が高いので見るだけの 人が多いかな?25階にあるオフィスへ上がって、受付の女性に 「あの、日本語で話して大丈夫ですか?」(広) 「いいえ、英語か広東語でお願い致します。」(英) 日本語ダメじゃん〜(泣)。しょうがないので 「×月××日の、香港から××行きの飛行機に乗りたいのですが。」(広) 「・・・・こちらへどうぞ。」(広) 奥の方のカウンターに案内され、そこに越し掛けた。受付にいた女性が応対してくれ た。 「***便でよろしいですね?」(広) 「ハイ。」(広) 「空席がありますので、お乗り頂けます。ご希望のお座席はありますか?」(広) 「禁煙席で通路側の席がいいのですが。」(広) 「・・・お待ち下さい。・・・・・*の**番になります。よろしいですか?」(広) 「それでいいです。」(広) 「便の変更等のご連絡用に、お電話番号をお願いします。・・・ではありがとうござ いました。」(広) 今まで香港に来たのは、すべてツアーだったので、こんな経験は初めてだ。簡単だけ ど、英語が解らないと大変な事になる。広東語を勉強した甲斐があったよ。でも日系 の航空会社で、1人くらいは日本語を話せる人を置いてないと、マズいんじゃないん だろうか?色々と問題が起こったとき、対応が早いと思うんだけど。


No,23 遠慮は禁物

 Winnie&Mavisとは、 結構ウマくやっていたと思う。 しかし、まったく問題なしだったとは言えない。 私が風邪を引いたときのこと。 「ひどい咳じゃないの!お医者さんにいった方がいいわよ。」(広) 「大丈夫、日本から薬を持ってきたから、これを飲んで治すよ。」(広&英) 香港の医療費は高い。海外旅行保険に入ってなかった私には、到底払いきれない額な のだ。 それを観越して、薬局経営の叔父に調達を頼み ”こんなに持って行くの?!”ってくらい大量の医薬品を香港に持参した。 それを大事に大事に服用する。どうも日本にいるときより効き目が悪いようだ。 やはり気候風土が違うからだろうか? シャワーしかない風呂で、ふんだんにお湯を出して温まったあと、 止まらない咳を抱えつつ、眠りにつく。 これだけはなるべく服用したくなかった抗生物質も飲んだ。あとはたっぷり眠るしか ない。

 深夜、電話で喋っているWinnieの声が聞こえる。 「本人は”モウマンタイ”って言ってるけど、本当に大丈夫なのかしら? お医者さんに連れていった方が良くない?」(広) 「もし悪化したらどうしよう・・・・日本のご両親に電話で相談したくても、 私は日本語できないし。あなたがその時は通訳してくれる?」(広) どうやらKarenと話しているらしい。 当時の私は、まだ広東語の理解力がそれ程なかったのだが、 どうしたことか彼女達の会話が聞き取れた。 「うん・・・うん・・・判った。もう少し様子をみてみる。じゃあね。」(広) 私は”モウマンタイ”(大丈夫の意味)と言ったけど、 それがWinnieにとっては、遠慮したやせ我慢にしか聞こえなかったようだ。 いや、事実、やせ我慢だったのかも知れない。

翌朝、咳は大分落ち着いた。何とか食欲も戻っている。大學も休まないで良さそう だ。 授業から帰って部屋で勉強していると、電話が掛かってきた。Karenからだ。 「阿May、風邪の具合はどうですか?ウィニーがとても心配だと言っていました。 遠慮しないで、なんでも彼女に言ってあげて下さい。 もしお医者さんに診てもらうのが心配だったら私がついていくし、お金なら貸せます から。」 「ありがとう、本当にもう大丈夫だから。今日は大分良くなったの。 大學にも出たし。日本から薬を持ってきたんだけど、効き目があんまり良くなかった みたいね。」 「ここは香港だから、香港の薬を飲むのがいいんじゃないでしょうかね〜。 でも良くなったみたいで、ホッとしました。 阿May、遠慮は禁物ですよ。どんどん私達を頼って下さい。」

もし私が彼女達の立場だったら、ここまで心配りをして上げられるだろうか? これからは適度に(?)、お世話になろうと思った。 そして私も、できるだけのことをして上げられたらいいな。


No,24 友、来たりて世話になる その1

4月に入って、授業にも慣れてきた。この学期の口頭試験に向けて、授業でも練習が 始まった。先生の質問も広東話、生徒の私達が答えるのも広東話。私は家でもそのよ うにして過ごしているから慣れているので良いのだが(だからと言って上手い訳では ない:苦笑)、クラスの皆は香港在住でも広東話を日常的に使っているのではない の で、苦労しているみたいだ。

頭の中に沁みついた母語は、そう簡単には切り替えでき ないものだ。一見して筆記よりも簡単そうで、実は難関の口答試験に向け1ターム めの勉強はクライマックスを迎えた。

そんなある日、金曜日の午後だった。Winnieが 「阿May、友達から電話。」(広)

大學のクラスメートは殆ど掛けてこないし、おかしいなと思いつつ受話器を取る。 「Mayさん元気〜!?私、Oでーす。」 日本語!?

何と、日本で広東語を勉強していたときの友人、Oさんだった。彼女のボーフレン ド のJoeが香港在住の為、遊びに来たのだった。彼には以前会っているが、私の事 を 覚えているだろうか?ちなみに私の記憶は曖昧だ。家へ招待されたけど、緊張して 何 も覚えていないのだ。

「阿May、お久しぶり。僕の事覚えている?」(広) 「覚えてるよ〜そっちこそ元気?」(広) 「今話している僕の広東話解るの?すごいねえ〜あ、Oに替わるね」(広) 「Joeがね、明日の土曜日、飲茶に来ませんかって言うんだけど。Mayさん暇 あ る?私も久しぶりに会いたいし。」 願ってもない事だ。Joeのご家族とは広東話で話ができるし、久しぶりに日本語 も 話せるし。二つ返事で電話を切った。

「阿May、日本からお友達が来たの?」(広) 「そう、広東話を一緒に習っていた日本人の友達。彼女のボーイフレンドが香港人 だ から香港に遊びに来たんですって。」(広) 「阿Mayも香港人の「ボーイフレンドができれば、もっと広東話が早く上達する かもよ(笑)。」(広) それができれば苦労はないよね(爆)。

「友達は英語で彼とコミュニケーション取っているんだって。日本では広東話があ まり身に付かないみたい。」(広) 「彼女も香港に来ればいいのにね。」(広) 「そうだね。でも事情があるんじゃないかな。」(広) この理由が判明するのは、少し後の事である。

土曜日の朝、待ち合わせの沙田へ向かう。KCR沙田駅の改札前にOさんとJoe が 待っていた。浅黒く日焼けしたJoeの顔。思い出した。 「久しぶり!元気そうだね。広東話が随分上達したんじゃないの?」(広) 「まだまだ解らない事ばかりなの。色々教えてね。」(広) 「僕の家族と話せば、良い練習になるんじゃないかな?とにかく香港に来た時は全 然 喋れなかったのに、ここまで上達したなんてすごいよ。」(広) 「Mayさんすごいな〜私は未だにJoeの家族とは筆談なの。」 「英語は?Oさんは英語ができるんだし、、問題ないんじゃないの?」 「Joe以外、家族の誰も話せないの。だから彼がいないと、ちょっと大変。」

土曜日の沙田のショッピングセンターは、家族連れで賑わっている。大きな、でも 庶民的な中華レストランへと案内された。香港では土曜と日曜には、家族揃って飲茶 に 出かける習慣がある。ここも家族連れがいっぱいいて、騒がしく飲茶を楽しんでいる。

席に着くと、阿Joeのパパ&ママ、何となく女優の莫文尉(カレン・モク)に似 て いる双子のお姉さん達&妹が待っていた。 「阿May、お久しぶり!」(広) 「ご無沙汰しています。皆さんお元気ですか?」(広) 「え〜いつの間にそんなスラスラ話せるようになったの?」(広) そんなに驚かないでね。以前に比べればマシだけど(苦笑)。 「まだ全然上手くないです。もっともっと話せるようになりたいんですけど・・・。」(広) 「じゃあ、もっと私達の家に来て、ご飯食べなさい。そしたら練習になるでしょう?」(広) とJoeママ。う〜むありがたいけどいいのか? 「遠慮はしないでいいのよ。阿Mayの香港での家族と思ってくれていいんだか ら。」(広) 広東話&英語(Oさんと阿Joeは英語)&日本語での、やけに賑々しく国際的? な飲茶だった。そういえばお勘定も払わせてくれなかったけど、こんなに良くしても らっていいのか・・疑問は残った。

2時間半程して、お店を出るとき阿Joeが 「阿May、まだ香港で行ったことがない場所ある?良かったら今日、案内するよ。」(広) それでは遠慮しないで言ってみようかな? 「まだ海洋公園(テーマパーク)に行ってないの。できれば行きたいなと思ってい たんだけど。」(広) 「Oも行ったことがなかったよね?じゃあ行こう!」(英&広)

メンバーは阿Joe、Oさん、私、双子のお姉さんの一人(未だに名前が区別でき な いくらい似ている)の4人。沙田から路線バスに乗って行こうと私が提案。ちなみ にバスで直接行ける事を、地元っ子の阿Joeは知らなかった。電車を乗り継ぐと結 構時間が掛かるのだ。 「そんな便利な路線があるの?」(広) 香港ではバス路線ガイドが駅売店とかで売られていて、私はこれを熟読していたの で詳しくなってしまったらしい。多分東京より知ってると、今でも思う。 「海洋公園まで、1時間もかからないと思うけど・・・」(広) なぜか案内されるはずの私に先導され、バスに乗り込んだ。


No,24 友、来たりて世話になる その2

バスの車窓から着陸間近の飛行機のお腹を眺めたり、おしゃべりしたりしていたら、 あっと言う間にハーバートンネルを抜け、香港島の南側にある海洋公園に到着。土曜 日とあって家族連れが多い。入場料は確か1人250香港ドルくらいではなかっただろ うか?ここでも阿Joeが全部会計してくれて、私はお財布を出す時間もなかったく らいだ。いくらレディファーストが慣例と言っても、これでは大変に申し訳ない気が してならない。でも香港の流儀に従うと、こうなってしまうのも無理はないか。

園内は東京ディズニーランドくらい広い。遊園地エリア、植物園&動物園&水族館エ リア、古い中国の時代の街並みの集古村に分かれていて、それぞれのエリアへは、ゴ ンドラや長距離エスカレーターで移動しなければ、とても一日では見て廻れない。ま ずは海洋公園入り口付近にある植物園エリアからブラブラと園内を歩いていった。亜 熱帯の珍しい花や樹木が生い茂っていて、植物好きの私にはとても居心地の良い場所 だ。写真を撮りまくる。日本では温室でしか見られない草木が、自分の目の前すぐに あるという、ちょっと不思議な光景。動物園・水族館エリアは日本と然程変わらない が、後年、大熊猫(ジャイアントパンダ)が飼育されるようになり、ますます来園客 が増えたそうだ。ここは一通り見たので、移動する。遊園地エリアに移動するには、 海岸沿いを運行しているゴンドラに乗らないと、恐ろしく遠回りの道程になるので、 ゴンドラを待つ長い行列に加わった。

話しをしながらだと待ち時間もそれ程苦にならないが、私達のやや後ろに並んでい る、ある一団が気になった。彼らは中国のとある省から来た、日本で言うところの農 協組合の方々だそうだ(阿Joeが彼らの身なりを見て解説してくれた)。何と並ん でいる人々を押しのけて、どんどん横入りして来るではないか。しばし唖然とする私達。 「何で並ばないの?」(広) 「大陸では並ぶ習慣が、あまり根付いていないんだよ。こういう人達ばかりではない だろうけどね。」(広)

国が違うと(表向きは一つの国だが)、習慣も違うのだ。私達の直ぐ後ろに並んでい た香港人カップルと目で合図を取り合い、これ以上横入りさせないよう、隙間のない ように並び直した。そうこうしていると、私達の乗る順番になった。ゴンドラの定員 は6人なので、件の香港人カップルと共にゴンドラへ乗り込んだ。横入りの一団は、 カップルの直ぐ後ろにまで割り込んで来ていた。

いやあ、怖かった。

怖いと言う話は聞いていたが、このゴンドラは乗り物ではなく、アトラクションだ。 海辺の断崖の上を運行しているので、海風を受けてものすごく揺れるのだ。揺れる度 にゴンドラは止まる。止まったゴンドラが、風にゆらゆら揺れるのが、また怖い。窓 から下を見ればゴツゴツした岩が高波に洗われている。ゴンドラを支えるロープも、 何だかあまり丈夫そうではないし・・・心臓の悪い人にはお勧めできない乗り物だ。 あと乗り物酔いする人にもね。

遊園地エリアに到着。ゴンドラに乗った余韻の、フラフラした足取りで乗りたい遊具 を探していたら、Oさんが 「私、あれ乗りたい!みんなで乗ろうよ。」(英) 指差す先には、回転するジェットコースター。Joeの顔色がサッと変わる。実は彼 は、このテの乗り物が大の苦手なのだ。私も苦手なので、2人で首を横に振った。 「絶対イヤ!」(英&広) お姉さんとOさん2人が乗り、私と阿Joeは見学した。乗っている人の様々な反応 を見ている方が、私は乗るより面白いと思う。阿Joeはジェットコースターに乗っ たOさんの写真を撮りまくっていたけど、あんなに早いスピードだと、インスタント カメラではブレてるだろうに・・・・・。その後は定番のメリーゴーラウンドなどに 乗る。ゆったりとしたこの乗り物の方が私には合っているようだ。 お昼時、土曜日のテーマパークとあって、お弁当を広げている家族連れが多い・・・ ・と思いきや、園内にあるマクドナルド(街中より3割高)を食べている家族が殆どだ。 「香港では、お弁当は持たないの?」(英&広) 「面倒だし、そもそもあまり作る習慣がないね。香港は何処に行っても食事する場所 は沢山あるから。」(英&広) またも習慣の違いか。 朝昼兼用の飲茶で、あまりお腹の空いてなかった私達も、家族連れに引きづられるよ うにマクドナルドで軽く腹ごしらえした。

集古村へは、ゴンドラではなくエスカレーターに乗っての移動だ。ものすごく長いエ スカレーターで、乗っている間に歩くたくなるのだが、急坂だし疲れるしで、大人し く乗ったまま(と言うか立ったまま)。長い勾配を、香港式の早い速度のエスカレー ターで降りていくのは、これまたアトラクション気分。見下ろせば香港仔(アバ ディーン)の漁港と高層マンションが眼下に広がる。エスカレーターに乗っていて、 風光明媚な景色が味わえるなんて、得した気分。

私達が到着したとき、集古村のアトラクション(京都太秦映画村や日光江戸村でやっ てるような アレを想像していただきたい それの中華版だ)は、丁度終わってし まったばかりで、夜の部を待たないと見られなかった。 「阿May、どうする?見たい?」(広) 「待つんでしょ?だったら別に見なくてもいいかな。」(広) この集古村は、中国の宋の時代の街並みを再現している。その中を歩いたり駄菓子や さん(当然 中華風)を冷やかすだけでも、昔の中国に行った気分が味わえて、なか なか趣があるものだ。橋の欄干や、金魚を模したゴミ箱(めちゃめちゃラブリーで、 持って帰りたかった)の前で、ポーズを取ってお互いの写真を撮りまくる。日本 じゃ、こんな格好して写真を撮らないのだが、その場の雰囲気にノセられてしまった。

夕方になり、そろそろ帰る時間だ。何やら阿Joeは家に電話している。 「阿May、今日は楽しかった?母さんが夕飯を食べに来なさいって言ってるけど、時間はあるかな?」(広) 無いワケが無い。 「いいの?」(広) 「遠慮しないで。」(広) と阿Joeとお姉さんは微笑みながら言う。 「行きます。」 とは答えたものの、Oさんに聞いてみた。 「ねえ、こんなにお世話になっても、いいのかな?日本ではここまでしてくれる事はないよね。」 「こっちの人達は、一旦気に入ってくれると、とことんお世話してくれる習慣みた い。遠慮は却って失礼に当たるんだって。」 まぁ、そういう事なら、とことんお世話になろうかな。 海洋公園からバスでMTR(地下鉄)の金鐘(アドミラリティ)まで行き、MTRと KCR(電車)を乗り継ぎ、大圍の阿Joe宅へ向かう。家に着いてドアを開けると 「お帰りなさい。楽しかった?ご飯できたから食べましょう。」(広) 何だか、友人宅ではなく自分の家に帰ってきた気がした。


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