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慰霊碑・供養塔
コレラ船

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◇コレラの悲劇 継承へ 横須賀 平成20年6月8日
神奈川新聞
◇祖国を目の前に亡くなった人々 横須賀 平成18年12月27日
毎日新聞
◇浦賀港引揚船関連体験集 横須賀 平成18年12月8日
神奈川新聞
◇照明灯 引揚記念碑 平成18年10月9日
神奈川新聞
◇引き揚げの 「玄関」に碑 浦賀港 平成18年10月8日
神奈川新聞
◇コレラの悲劇伝えたい 記録集刊行 平成18年10月6日
日経新聞
◇引揚げ船の資料集再発行 横須賀 平成18年10月5日
神奈川新聞
◇「引揚記念の碑」 浦賀港
10月設置 平成18年8月8日 神奈川新聞
◇「引揚船コレラ事件」を後世に 浦賀 平成18年3月27日
毎日新聞
◇来秋、市営公園に碑建設 コレラ事件 平成17年10月4日
毎日新聞
◇写真記録集 コレラ禍伝える 平成16年9月2日
毎日新聞
◇写真記録集完成 コレラ禍を後世に 平成16年1月24日
毎日新聞
◇近く写真資料集発刊 浦賀探訪くらぶ 平成16年1月24日
毎日新聞
◇参拝しやすい場所に移築を 現地調査 平成14年10月22日
毎日新聞
◇横須賀で体験証言 茅ヶ崎の斉藤さん 平成14年8月15日
毎日新聞
◇コレラの悲劇 戦後史の空白 平成14年8月6日
毎日新聞
◇コレラ船地獄≠記録 50人の体験記 昭和51年8月15日
神奈川新聞
コレラの悲劇
継承へ
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横須賀 DVD完成、配布 終戦後の引き揚げ船
太平洋戦争終結後、朝鮮半島などに移住していた人たちが日本を目指した引き上げ船。本国に到達間近の船内で起きた
「コレラまん延」という悲劇を語り継ぐ取り込みが、横須賀の市民グループによって進められている。「証言する人が健在なうちに、歴史を形にしたい」と、当時の資料映像を織り込んだDVDを1年かけて完成させ、5月から市内の小中学校などに配布している。(松崎敏朗)
横須賀市浦賀地区で地域史を研究する 「中島三郎助と遊ぶ会」=小柳真澄会長=のメンバー10人は、咸臨丸の建造などに取り組んだ中島三郎助の功績を中心に、浦賀港の研究を進めてきた。「コレラまん延」は、港の歴史をたどる過程で知ったという。
同会によると、引き揚げ船の寄港地に指定されていた浦賀港には戦後、多くの船が入港。およそ56万5千人が帰国したが、コレラの感染が見つかって以降は伝染を防ぐため、到着船は検査が終わるまで上陸が禁じられた。感染者は港近くに設けられた隔離施設で治療を受けた。
次々と港に迫る引き揚げ船。検査は追いつかず、時に数10隻が港近くの海上に停泊を余儀なくされた。船内で祖国の地を踏むことを夢見ながら、コレラや栄養失調でおよそ千人が亡くなったという。
同会メンバーらは、これまでにコレラまん延の経緯などをまとめた冊子2冊を発行。その折に出会った当時の検疫所職員らから、横浜税関などに引き揚げ船の様子を写したフィルムが残されていることを知らされた。その映像と関係者の証言をまとめて、DVD
「浦賀港引揚船の悲劇」を完成させた。
DVDには、浦賀港を目前にした船内で、あばら骨が浮かび上がるほどにやせてしまった人や、引き揚げ船から棺おけが下ろされる様子などが収録されており、約30分間のモノクロ映像がかつての悲劇を映し出す。
「戦争のむなしさや、平和の尊さを、あらためて伝えたかった」と小柳会長。「学校の教科書には出てこないが、大きな社会問題となったコレラまん延を、若い世代にも知ってもらいたい」と話している。約300枚作製、問い合わせは、小柳会長
046・843・1298。 平成20年6月8日 神奈川新聞
祖国を目の前に亡くなった人々
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横須賀 忘れられた戦後史 関係者訪ねて
引き揚げ船、コレラ検疫の碑 建立 横須賀市が10月、浦賀港に面した公園(西浦賀みなと緑地)に慰霊碑
「浦賀港引揚記念の碑」を建てた。「船内でコレラが発生。(中略)有史以来、かつてない大防疫が実施された。祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった」と書かれた。終戦後、引き揚げが本格化した1946年春、多くの船からコレラ患者が出た。脱水症状を起こし、放置するとそのまま死に至る伝染病。栄養失調で弱った復員兵が次々と感染した。市史にもほとんど記載がなく、歴史の谷間に埋もれた60年前の光景を探ろうと、老齢の関係者たちを訪ねた。【内橋寿明】
■ 徹底した検査 「船上から浦賀の丘に咲く桜を見た時は、ただただ感激で言葉もなかった」。中国南部から引き揚げた佐野辰男さん=横須賀市=は、遠くを見ながら切り出した。8ヵ月の抑留後、窮屈な4段ベッドにひさを曲げ、10日ほど波に揺られた。コレラで死んだ仲間を海に投げ気笛で見送る、つらい航海だった。
4月中旬、「内地が見えたぞ」と歓喜の声が甲板にあふれた。だが、下船命令が出ない。徹底したコレラ検査のため停泊が決まった。上陸まで2ヵ月、患者はどんどん収容所へ行き、足を伸ばせるほどになった。食糧は塩水に浮いた乾パン2、3枚だけだった。
「船内の雰囲気は?」。これまでは突然の私の訪問に戸惑っていた佐野さんが、堰を切ったように会話を再現し始めた。
「おい佐野、もう我慢できない。ここから泳いだら行けるか?」 「ばかやろう、潮が太平洋へ出ているんだ」
「だめか」 「よしたほうがいい。家族が待っているんだぞ」 デマが原因で暴動も起きた。「岸に着けないのは船員のせいだ」
「そうなのか」 「食糧も独り占めにしているそうだ」
■
56万人が帰国 現在は釣り船が浮かぶ浦賀港に、終戦後の45年10月から1年半で復員兵ら約56万人が帰国した。コレラを直接の死因として港内で亡くなった人は398人と記録に残るが、港周辺の収容所と病院に行った患者は4万人を超えるといい、実際の犠牲者数は不明だ。
20隻を超える停泊船を乗船名簿を手に検査して回ったのが、医師の小見山茂人さん=同=だ。「便のすり替えや身代わりを使い、ごまかそうとする上官もいた」
1隻で3000〜4000人が引き揚げた。コレラが目立ち始めた46年4月から5ヵ月間は、朝から晩まで検便。「医師としてのプライドが体を動かしていた」 船内は殺気立っていた。好意で持参した新聞を読んだ復員兵が怒鳴った。「進駐軍ばかり持ち上げる新聞は偽物だ」
■
軽い患者の体 「1人残らず検便」。気の遠くなる作業を、全国から集められた看護師が支えた。磯洋子さん=栃木県大田原市=は、重症患者を背負って何度も船のタラップを降りた。「これが兵隊さんか、とびっくりするほど軽かった。上陸しておかゆを食べてほっとしたのか、そのまま亡くなる人もいてね」。磯さんの目から涙が落ちた。
埼玉県狭山市の太田利世さんは、岸壁の蒸し暑い宿舎の記憶が鮮明だ。「窓を開けても、べとつく潮風。停泊船の明かりが暗い海にちらちいていた」。疲労が蓄積し、よく眠れなかった。「兵隊さんが頑張っているんだから、と仲間を励まし合った」
■
命あるうち 群青色の海が迫る久里浜少年院の敷地内に、高さ1mほどの供養塔がひっそりと立つ。引き揚げ終了後の50年、患者の収容所があった地に整備された。塔を支える石段は、兵を火葬した炉の石で組んだ。近くの長安寺に、引き取り手のない遺骨が今も安置されている。
「悲劇が忘れ去られないよう、伝え続けてほしい」。取材に、4人は何度も繰り返した。磯さんは
「私の遺言」と言って、私の背中が見えなくなるまで送ってくれた。
佐野さんは私の手を強く握り、涙と鼻水が流れるまま訴えた。「こんなみじめな思いをしたことを後世に伝えて」。供養塔参拝には、敷地に立ち入る事前許可が必要だ。佐野さんは
「戦友がまだ生きているうちに、自由に参拝できる場所へ移してほしい」と話した。平成18年12月27日
毎日新聞
コレラ防疫作戦
記録に
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横須賀 浦賀港引揚船関連体験集 関係者が手記まとめ 懸命な作業など描く
終戦後、復員軍人らの引き揚げに港に指定された浦賀港では、かつてないコレラの防疫作戦が展開された。最前線にいた検疫官、医師、看護師らの手記が、市民グループ
「中島三郎助と遊ぶ会」(小柳眞澄会長)の手でまとめられ、「浦賀港引揚船関連体験集」として刊行された。編さんの途上、防疫活動の様子を米軍が撮影した16mm実写フィルム(約40分)も見つかり、10日夜、地元浦賀で映写会が行われる。(石井
邦夫)
浦賀港は、敗戦の年の1945年10月から47年5月まで引き揚げ船を受け入れ、56万余人が上陸した。第1船は、46年4月5日、中国・華南方面から入港。乗っていた引き揚げ者4千人余のうち10人が航海中にコレラで死亡。連日、患者の収容や検査が続き、全員が上陸できたのは40日後だった。
以後、入港する船からは、コレラ患者が次々と出て、浦賀沖には引き揚げ船の係留地が指定され、隔離された。ピーク時には20数隻に及び、10万人以上が船内にとどめ置かれた。旧海軍対潜学校(久里浜長瀬の現久里浜少年院)には検疫所が拡充して設けられ、防疫作戦が展開された。
「体験集」は、業務に携わった関係者24人の体験を掲載。検疫官として携わった小見山茂人さん(横須賀市在住、横浜検疫所OB会長)ら関係者が76年、「思い出の会」を開き、席上、記録に残しておこうと書きとどめていたものだ。鬼籍に入った人もいる。
「帰還船が、そっくり病院船となって入港」 「検疫所長の訓示 『日本国内に1人のコレラを感染させるな』を合言葉に」
「何の仕切りもなければ、囲いもない青空の下での採便作業」など、当事者でしか伝えられない懸命の作業が描き出されている。
A4判116n。700部印刷され、1冊千円で、「中島三郎助と遊ぶ会」会員、京急線浦賀駅前の若木屋=046・841・6628=で頒布している。映写会は10日午後6時半から、横須賀市東浦賀町2丁目のマリンポート・コーチャで開かれる
「中島三郎助と遊ぶ会」の例会で行われる。問い合わせは、同会の小柳会長方 046・843・1298。平成18年12月8日
神奈川新聞
照明灯 引揚記念碑
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太平洋戦争が終わったのは1945年8月15日だが、旧満州(中国東北部)や南方地域から引き揚げてきた人たちには、新たな試練の始まりになった。
▼横須賀の浦賀港は、全国に12あった引き揚げ港の1つ。博多、佐世保、舞鶴に次いで56万4千人の復員軍人や軍属、市民が悲願の帰国を果たした。最初に入港したのは氷川丸で、同年10月7日。
▼翌年春、引き揚げ船の中でコレラ患者が見つかった。疑いのある船はすべて上陸禁止となり、ピーク時には25隻もが浦賀沖にひしめいた。数万人の復員者が何日間も閉じ込められ、亡くなった人は千人を超すともいわれる。世に言う浦賀コレラ事件。
▼「発生から1ヵ月、狭い船底の生活、折り重なって寝ても半分は眠られない窮屈さ、地獄さながらの状態。元気だった同僚が急に症状を呈し、あっけなく死んでいくのを見ると皆恐怖心に襲われた」。船内に足止めされた復員者の1人が当時、本紙に寄せた投書である。
▼「繰り返してはならない悲惨な引き揚げの体験を後世に伝え、犠牲になった人々の鎮魂と恒久平和を祈念する」と刻んだ記念碑がこのほど港近くに設置され、氷川丸が入港した日に合わせて除幕された。祖国の土を踏む直前に亡くなった人たちの無念さをいま一度思い返したい。平成18年10月8日 神奈川新聞
引き揚げの
「玄関」に碑
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浦賀港に設置 記念式典で平和を祈念
終戦直後に中国大陸や南方地域などからの引き揚げ者の玄関となった浦賀港の歴史を後世に伝えようと、「浦賀港引揚記念の碑」が7日、同港内の緑地に設置され、記念式典が開かれた。引き揚げ者や地域住民らが設置を祝い、平和への思いを新たにした。(田中
大樹)
浦賀港は終戦直後、引き揚げ港に指定され、56万人以上の復員軍人や軍属らが帰国。同港に着いた船の中には航海中にコレラなどが発生したものもあり、約2千人が亡くなったとされる。
設置された10月7日は、1945年に同港に最初の引き揚げ船 「氷川丸」が到着した日、引き揚げ船の形をイメージした碑には当時の歴史が記され、「私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引き揚げの体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂ち恒久の平和を祈念する」などと刻まれている。
式典で、蒲谷亮一市長は 「引き揚げ船を受け入れた浦賀港の歴史や役割を多くの人に知ってほしい」とあいさつ。46年5月に当時のビルマから引き揚げてきたという横須賀市池上の城野鉄五郎さんは
「一緒に引き揚げてきた人たちや到着したときの喜びを思い出す」と話し、記念碑設置を喜んでいた。平成18年10月8日
神奈川新聞
コレラの悲劇伝えたい
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引き揚げ船の記録集刊行 医師・検閲官の言葉つづる 横須賀・浦賀港
犠牲者2000人
終戦後の引き揚げ船で、大陸から浦賀港(神奈川県横須賀市)に帰還した復員兵ら約2000人がコレラで命を落とした悲劇を伝えようと、検疫官や医師の証言をまとめた記録集が7日刊行される。患者を目の前にしながら、多くの最期を見届けて苦しむ心情がつづられている。編集担当者らは
「戦争が落としたもう1つの影を伝えたい」と話す。
出版するのは 「浦賀港引揚船関連体験集」(130n)。郷土史を研究している横須賀市の小柳真澄さんら5人が、終戦後の1945年秋から47年春まで浦賀検疫所に勤務した検疫官や医師ら26人の体験談などの記録を集めた。
最初の感染確認は46年4月。衛生状態の悪い航海中に発症が相次ぎ、約2ヵ月間に帰港した約20隻のうち、犠牲者は約2千人に膨らんだ。証言者の1人で検疫官だった小見山茂人さんは46年、約3500人が帰還した
「V077号」を担当。沖合に停泊した同船に約1ヵ月間の期間中、10回程度乗り込み、その都度、全員の状況を診たという。
船内では1坪あたり7、8人が押し込まれた劣悪な環境で、やせ衰え、立ち上がれない人も多かった。小見山さんは
「復員兵らは疲れ切り、精神的にも追いつめられていた。母国を前に亡くなった無念に心が痛む」。
上陸できないため、「家族に渡してほしい」という手紙を託された小見山さんが郵送したところ、自宅が空襲で焼けていたり、親が病に伏せているなど、戦地に赴いている間の故郷の悲報に暮れる姿もあったという。
地元の横須賀市は、犠牲者を悼み、悲劇を後世に伝えようと港近くに 「浦賀港引揚記念の碑」を建立。7日に営まれる除幕式に合わせて記録集700部を発行する。「地元でも長く、引き揚げ船の歴史に光が当たらなかった」と話す編集担当の小柳さんらは市内約80の小中学校を回り、希望する学校に無料で配ることにしている。
500万人引き揚げ 厚生労働省によると、終戦後の1945年秋から46年末までに中国や東南アジアなどから約500万人の復員兵らが引き揚げた。全国の引き揚げ指定12港のうち、浦賀港には4番目に多い約
56万人が帰還した。浦賀港への引き揚げ船第1号は現在、横浜港に係留している氷川丸で、45年10月に入港した。平成18年10月6日
日経新聞
引揚げ船の資料集
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横須賀 再発行
横須賀市は、横須賀・浦賀港の引き揚げ船に関する写真資料集 「よみがえる戦争史の空白」(旧浦賀地域文化振興懇話会と同市編集、2004年3月)を再発行、今月10日から販売する。7日に
「浦賀港引揚記念の碑」が除幕されるのに合わせた。
終戦時、浦賀は軍人や一般邦人の引き揚げ港に指定され、56万人を受け入れた。浦賀検疫所はコレラ菌の上陸阻止へ水際作戦≠展開。成果を挙げた一方で、祖国を目前に、少なくとも398人がコレラで死亡したといわれる。
同写真資料集では、検疫のために沖合い待機する引き揚げ(復員)船や浦賀に入港した氷川丸、検疫担当者が撮影した検査作業の写真や、医療関係者の証言や当時の新聞記事などが掲載されている。
A4判、174n。定価1200円。横須賀市役所市政情報コーナーと浦賀行政センターで販売される。(春名
義弘) 平成18年10月5日 神奈川新聞
「繰り返さぬ」先人に誓い
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浦賀港 10月設置 「引揚記念の碑」
終戦直後に中国大陸や南方諸地域からの56万人以上の引き揚げ者の玄関となった浦賀港の歴史を顧みようと、横須賀市は10月7日、「浦賀港引揚記念の碑」を同港内の緑地(西浦賀町1丁目)に設置する。平和の願いなどを後世に伝えるため、地元住民らから記念碑を建てようという声が高まっていた。(真野
太樹)
引き揚げ船の形をイメージしたという碑には当時の歴史が記され、「私たちは、再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引き揚げの体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念する」などと刻まれるという。
浦賀港は、終戦直後の1945年10月から47年3月まで、全国に12あった引き揚げ港の1つに指定され、博多(139万人)、佐世保(同)、舞鶴(62万人)に次ぐ、56万4千人の復員軍人や軍属らが帰国した。記念碑が設置される10月7日は、45年に同港に最初の引き揚げ船
「氷川丸」が到着した日という。
同港に着いた船の中には航海中にコレラなどが発生したものもあり、約2千人が亡くなったとされる。市内には、久里浜少年院(同市長瀬)や長安寺(同市久里浜)に、コレラで亡くなった人たちの供養塔などもある。
2002年に引き揚げ船に関する写真展が開催されたのをきっかけに、地元住民らから記念碑設置の議論が起こり、横須賀市が市制百周年(07年)を迎えるに当たり建立を決め、費用(367万円)も負担した。10月7日には蒲谷亮一市長らが出席して除幕式が開かれる。平成18年8月8日
神奈川新聞
「引揚船コレラ事件」を後世に
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横須賀・浦賀 記念の碑建設へ
終戦直後に横須賀市浦賀港で起きた 「引揚船これら事件」を伝える 「浦賀港引揚記念の碑」建設が同市議会で決まった。工費約652万円で10月7日に除幕式の予定。
同港には1945年(昭和20年)秋以降、大陸からの復員兵ら56万人余が引き揚げてきた。46年春に船内でコレラが発生、約2000人の復員兵らが死亡した。
記念碑は浦賀病院前の市営公園に、みかげ石で建てる。病兵の輸送で借りた米進駐軍のリバティー船をデザインした横2m、縦60〜45cmの船形が飾られる。歴史を伝える碑文で支える。除幕式は最初の引き揚げ船
「氷川丸」の入港日に合わせた。
事件の4年後、関係者が建てた 「供養塔」が、今も久里浜少年院(同市長瀬)に残るが、その悲劇は忘れられていた。数年前から地元の
「中島三郎助と遊ぶ会」(小柳真澄会長)や市議が 「参拝しやすい場所に移築を」との声を上げた。
同会は02年夏に写真展を開催、写真資料集も出版し、全国から大反響だった。小柳会長は
「これで戦後史の空白を埋め、後世に伝えることができる。2度と戦争の悲劇を起こさぬよう、碑文には
『平和』の文字を刻む」と願いを込めた。【網谷利一郎】
平成18年3月27日 毎日新聞
来秋、市営公園に碑建設
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引揚船コレラ事件 後世に 2000人の復員兵ら浦賀港で死亡
終戦直後に横須賀市浦賀港で起きた 「引揚船コレラ事件」。約2000人の復員兵らがコレラで死亡、祖国の土を踏めなかった。この悲劇を伝える
「浦賀港引揚記念の碑」を同市西浦賀町の公園に来秋、建設する計画が固まった。市が費用を負担する。「戦後の裏面史を後世に伝えたい」と建設運動を続けた市民グループは期待を寄せる。【網谷利一郎】
同港には1945年(昭和20年)秋から翌春にかけ、大陸からの復員兵ら56万人余が引き揚げてきた。46年春、船内でコレラが発生、復員兵らが次々に死亡。その4年後に関係者が建てた
「引揚船戦没者供養塔」が、今も久里浜少年院(同市長瀬)に残る。死者の火葬に使った大谷石でできている。
しかし、少年院内にあり参拝の手続きが面倒なため、存在は忘れられがちだった。数年前から地元の
「中島三郎助と遊ぶ会」(小柳真澄会長)や自民・公明の市議団が 「参拝しやすい場所に移築を」との声を上げ、市と協議を続けてきた。
新しい記念碑は、浦賀病院前の市営公園の一角にみかげ石で建てる。当時、病兵の輸送で借りた米軍リバティー船をデザインし、横2m、縦60cm〜45cmの船形。悲劇を伝える碑文で支える。
市社会課は 「数百万円はかかるが、07年の市制100周年事業の一環として取り組みたい」と話す。最初の引揚船
「氷川丸」の入港日に合わせ、来年10月7日に除幕式の予定だ。
同会は02年夏に写真展を開催、写真資料集も出版し、全国から大反響だった。小柳会長は
「お墓ではなく、誰でも見られる記念碑になる。戦後史の空白を埋め、後世に伝えることができる。生き証人が高齢化しており、体験記録をまとめて発行したい」と証言を集めている。平成17年10月4日
毎日新聞
写真記録集
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浦 賀 引き揚げ船
コレラ禍伝える
終戦直後の横須賀市浦賀港で起きた引き揚げ船のコレラ禍を記録した「写真記録集」(非売品)が、若干残っており、編集した「浦賀地域文化振興懇話会」(山本詔一代表幹事)は、「関心のある教師に読んでもらい、子供たちに戦後史を伝えてほしい」と呼びかけている。
5月に1000部出版し、浦賀地区の小、中学校や関係機関に配った。2年がかりで編集した小柳真澄さんは、「全国の体験者から『欲しい』と問い合わせが来ている」と反響の大きさに驚く。
コレラ船の悲劇が起きたのは、終戦翌年の1946年(昭和21年)春。中国大陸などから約56万人が引き揚げてきた浦賀港で、復員兵のコレラ患者が見つかり、2000人が死亡した。
写真資料集は、「よみがえる戦後史の空白」との副題が付けられ、医師や看護婦ら生き証人の体験記と写真120枚が収められている。
山本さんが最近、横須賀市内の社会科の教師の研修会に講師で出席し。コレラ禍を話した。「コレラ船の悲劇を知らない教師も多かった。市内の全校に配る方法だと片隅に置かれてしまう可能性がある。戦後史に関心を持つ教師にあげたほうが広がりがある。教材として使ってくれたら」と期待する。
問い合わせは、浦賀行政センター(046・841・4155)へ。【網谷利一郎】
平成16年9月2日 毎日新聞
コレラ禍を後世に
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終戦直後の浦賀港引き揚げ船で2000人余犠牲 写真記録集完成
終戦直後の横須賀市浦賀港で起きた引き揚げ船のコレラ禍を記録した、「写真記録集」が、完成した。一昨年、写真展を開いた、「浦賀地域文化振興懇話会」(井上祐一代表幹事)が、全国の体験証言をまとめた。「戦後史の空白を埋め、次世代に伝えたい」との願いがこめられている。
浦賀港には中国大陸などから約58万人が引き揚げてきた。コレラ船の悲劇が起きたのは、終戦翌年の1946年(昭和21年)春。復員兵のコレラ患者が見つかり、駐留米軍は上陸を禁止し、2000人余が死亡したとみられる。
写真資料集は、「よみがえる戦後史の空白」との副題が付けられ、1000部発行。体験者からの提供も含め写真120枚とともに、検疫証明書など貴重な資料も収められている。さらに全国から召集された医師、看護婦ら生き証人の体験記も記録されている。
写真展は02年夏に横須賀市内で開かれ、米国で入手した当時の写真を展示。体験者の座談会も開いた。「全国から集まった証言を残そう」と郷土史家の小柳真澄さんら4人が編集委員となり、昨年4月から毎月2回、会議を重ねた。
当時、朝日新聞記者として取材した元自治相、田川誠一さん=同市浦郷町=も巻頭文を寄せ、「除隊後、終戦の年の10月に横須賀に復職した。混乱期で難しい取材だった。記録を後世に伝える意義は大きい」と話す。
浦賀中の元校長、中内弘さん、「黒船の歴史は授業で教えたが、引き揚げ船の悲劇は教えることもなかった。この写真資料集の事実をぜひ小・中学生に伝えたい」と語った。【網谷利一郎】
平成16年1月24日 毎日新聞
引き揚げ船の悲劇知って
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浦賀探訪くらぶ 近く写真資料集発刊
終戦直後の横須賀市・浦賀港に引き揚げ船で56万人余が帰還した。コレラ禍で祖国に上陸できぬまま死亡する悲劇も起きた。一昨年、写真展を開いた市民団体「浦賀探訪くらぶ」(杉本幸三代表)が全国の体験証言を集め、近く「写真資料集」を発刊する。「戦後史の空白を埋め、次世代に伝えたい」と願いをこめる。
「きっかけは99年夏、友人からの手紙だった。『引き揚げ船の悲劇に地元があまりに無関心』との訴えに、調べを始めた」と小柳真澄さんは、空白の戦後史への取り組みを話す。
引き揚げ船の悲劇が起きたのは、終戦翌年の1946年5月だった。復員兵のコレラ患者が見つかる、駐留米軍は上陸を禁止し、2000人余が死亡したとみられる。
写真展は02年夏に横須賀市内で開かれ、米国で入手した当時の写真を展示。体験者の座談会も開いた。「浦賀探訪クラブ」は「全国から集まった体験者の証言を残そう」と4人が編集委員となり、昨年4月から毎月2回、会議を重ねた。
3月に発行予定の「写真資料集」は、写真が約120枚。うちコレラ船関連は50枚ほど。コレラ検疫に従事した医師らの貴重な証言、資料も収められている。
浦賀中の元校長、中内弘さんは、「亡父も引き揚げ船で帰国した。黒船の歴史は授業で教えたが、引き揚げ船の悲劇は教えることもなかった。写真資料集ができたら、地元の小、中学校で子供たちに伝えていきたい」と希望を語った。【網谷利一郎】
平成16年1月24日 毎日新聞
「参拝しやすい場所に移築を」
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引き揚げ船の悲劇伝える供養塔 横須賀の市民団体が現地調査
横須賀市の市民グループ「中島三郎助と遊ぶ会」(小柳真澄会長)の会員ら約50人が21日、久里浜少年院(同市長瀬)にある、「引揚船戦没者供養塔」を訪れた。終戦後に起きた引き揚げ船の悲劇を伝える供養塔だが、「もっと参拝しやすい場所に移築を」との声があがり、自民党市議団(川島幸雄団長)も市に予算化の要望書を出した。
同市の浦賀港には1946年春、復員兵ら56万人余が引き揚げてきた。船内でコレラが発生し、約2000人が祖国に上陸できないまま死亡。その4年後に関係者が供養塔を建てた。しかし、管理が厳しい少年院内にあるため、申請・許可手続きが面倒なこともあり、忘れられがちだった。
今夏、引き揚げ船の写真展を開催した同会は、「埋もれた戦争の悲劇を後世に伝えるためにも、一般市民が参拝できる移築したい」と現地調査に訪れた。同市市議団も賛同し、来年度予算の要望書に移築を盛り込んだ。青木良夫市議は、「惨禍を市としても正しく伝えるよう、沢田市長に申し入れた」と話す。
小柳会長は、「写真展の反響がすごく、もっと多くの人に知ってもらうためにも、移築を実現したい。現在は露天だが、お堂を作りたい」と願っている。【網谷利一郎】
平成14年10月22日 毎日新聞
祖国を目の前でコレラで死んでいった・・・
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茅ヶ崎の斉藤さん 横須賀で体験証言 語り継ぐ引揚船の悲劇
「甲板から祖国のサクラが見えた。しかし、コレラ禍で船内は生き地獄だった」。終戦直後に横須賀市・浦賀港で起きた「コレラ船」の悲劇を、生き証人である斉藤次雄さん=茅ヶ崎市=は17日、体験者の座談会で証言する。
中国大陸に出征した斉藤さんは、終戦の45年9月、中国・広東で捕虜になった。汚物処理の仕事をした。46年4月5日、米国の輸送船で広東を出発。4月14日、浦賀港へ。「24歳の誕生日だった。しかし、船内でコレラが発生し、アメリカさん(駐留米軍)が上陸禁止にした」
船内には2500人余がいた。コレラと栄養失調で犠牲者の数は増えた。食事は乾パンと薄いみそ汁だけ。「食べられない患者の乾パンを奪いあった。人間が人間でない地獄状態だった」
6月1日、消毒液を浴び、やっと上陸。「祖国のサクラも見ずに死んだ兵士は、私の船だけでも200人を超した」。犠牲者の供養塔が、浦賀港に近い久里浜少年院の外れに建っている。事件から4年後の関係者らが作った。
「引揚船写真展」が15日から開かれる浦賀文化センター(横須賀市浦賀町)で17日午後、数人が集まり、体験を語り継ぐ。「汽笛ノ声悲シク断腸ノ思ヒナリ」
セピア色になったノートに、戦友の水葬をそう書き残した斉藤さん。戦後は国鉄に勤め、鎌倉駅長もした。「孫が3人いるが、戦争体験が風化しないよう伝えたい」と資料作りを続ける。【網谷利一郎】
平成14年8月15日 毎日新聞
コレラの悲劇 
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戦後史の空白を埋めたい 祖国
目前に死亡した復員兵も
終戦直後の横須賀市・浦賀港に中国大陸などからの引揚船が帰港し、56万人余が帰還した。しかし、船内でコレラ患者が見つかったため、祖国を目前に上陸できないまま死亡した復員兵も多くいた。市民グループが米国で入手した当時の米軍の写真、生存者の資料をまとめ、15日から同市内で「引揚船写真展」を開く。【網谷利一郎】
15日から浦賀 「引揚船写真展」
「(コレラ患者が見つかった)コレラ船の悲劇を中心に、戦後史の空白を埋めたい」主催の「中島三郎助と遊ぶ会」の小柳真澄会長は、3年前から「浦賀探訪くらぶ」(杉本幸三代表)と協力し、資料集めを続けてきた。注目は、当時の米軍が写したコレラ船内の様子など、米国内で入手できた写真約100点だ。やせ衰えた復員兵や消毒風景などが白黒で生々しく写っている。
引揚船は終戦直後の1945年10月から浦賀港に帰港しだしたが、悲劇が起きたのは翌46年5月だった。復員兵の中からコレラ患者が見つかり、当時の駐留米軍が上陸を禁止するとともに、他の疑いのある船もすべて浦賀港に集めた。
「栄養失調の帰還兵も多く、祖国を眼前にコレラ渦で死亡した人は2000人を超えたとみられる」と小柳会長。
写真展は15〜17日、浦賀文化センター(同市浦賀町)、19〜31日に市民活動サポートセンター(同市本町)で開かれる。杉本代表は、「生存者の座談会も開く。当時の体験者、資料を探している。若い人にぜひ見て、歴史を学んでほしい」と呼びかけている。平成14年8月6日
毎日新聞
コレラ船地獄≠記録 
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引き上げ船の惨劇から30年 50人の体験記集め
敗戦直後の昭和21年春、浦賀についた中国大陸からの引き上げ船でコレラが発生、故国への上陸を目前にして多くの復員軍人が死亡するという悲惨な事件があった。引き上げ作業の混乱から当時の記録もなく、実態の多くが語られていない。そこで、当時の検疫官、医師、看護婦、衛生班員らが、それぞれの体験記を書き、記録として残すことになった。「あのせい惨なコレラ騒ぎの実態を克明に書き、戦後裏面史の一ページとしたい」─関係者は31年目の8・15を迎え、改めて終戦処理のひとこまを回想している。
浦賀コレラ事件を当時の新聞報道から拾うと─。
船内から10万人
21年4月5日、広東から引き揚げ者を乗せ、浦賀に向け航行中の輸送船で、二人のコレラ患者が発生した。以後、浦賀港(現在の久里浜少年院裏岸壁)に入港した引き揚げ船から、次々とコレラ患者が出て、浦賀港一帯は大混乱を呈した。米軍も、厚生省もコレラの日本上陸を阻止するための水際作戦≠展開、引き揚げ船を海上で停泊させる措置をとった。そのため当時の新聞は、「海上にコレラ都市、食につまる復員者8万」と伝えるほどで、ピーク時は浦賀沖に25隻近くの引き揚げ船がぎっしり浮かび、10万人以上の復員者が船内にとじこめられた。
「早く上陸を」
国内も食料不足、船内はそれ以上で、ほとんどの将兵がかゆをすすり、2日も絶食している船もある、と新聞は伝えた。「船内では暑さと飢えに傷心の人々が故国の青葉を眼前にしながら恐ろしい病気と戦っている」とも報じ、ついにがまんできなくなった一兵士が神奈川新聞へ、その地獄絵図≠投稿した。21年5月5日付に、「救え!故国眼前に海上封鎖の復員者」と題しその手記が掲載された。「コレラ発生から早1ヵ月、その1日1日が我々にとっては地獄の責め苦の連続だった。芋を洗うような狭い船底の生活、折り重なって寝ても半分は眠られぬ窮屈さ、人いきれ、地獄さながらの状態。その上1時間前まで元気だった同僚が急にコレラ症状を呈し、船内の隔離室にかつぎ込まれ、あっけなく死んでゆくのを見ると皆恐怖心に襲われた。ああ次は俺がやられるのか、と1日も早く陸上へ!」と悲痛な叫びだった。
死者385人以上
死者は500人とも600人ともいわれたが、同年5月9日付新聞は厚生省の発表として患者1629人、死者385人と報じた、さらに5月下旬までの記録を含めると相当数にのぼる。
当時検疫作業に携わった相沢邦夫さん=現県社会福祉会館長=は、断片的な記憶をたどり当時のようすを語っている。「せい惨でしたね。元兵舎が病棟に早変わりし、患者が隔離された。両手両足にリンゲルをうったまま死ぬ人もいた。毎日のように40人〜50人も死んでいった。死体は病舎の外で木材を組んで20体〜30体とまとめて焼くほどだった。故国を目の前にして同僚が死んでゆく、という悲痛な電報や信号が船内から発せられていた」─。
その死体を焼いた大谷石を組んで、当時の久里浜刑務所長、田中繁太郎氏が供養塔を建立した。石には遺体を焼いた跡が黒々と残っていた。ことし3月、当時検疫作業に当たった検疫官の小見山茂人さん=現埼玉県所沢保健所長=ら関係者が「思い出会」を開いた席上、30年も経過した今、当時の記録を残しておこう、ということになり、9月中旬をメドに小冊子を発行することにした。小見山さんは、「関係者50人に原稿を依頼しており、当時の状況が再現されるのではないかと期待している」という。昭和51年8月15日
神奈川新聞






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更新日 2000/1/12